続いて、古典落語をやる際の心掛けについて。
問われて、アレンジを入れていい噺と、入れない噺を分けてると一之輔。
長屋の花見は教わったまま忠実に。茶の湯や粗忽の釘はアレンジを加えていい。
これ自体演芸論としてもうちょっと聴きたいところなのだが、マウンティングの機会を狙う志らくは、急激に話を変える。
古典落語にオリジナルギャグをばんばん入れる人は、私の前にはいなかったんですよと。今じゃ普通になっていると。
なんだこの唐突なパイオニア自慢。
Before志らくとAfter志らくで、落語の歴史が大きく動いたと? 聞いたことねえな。
一之輔もまた、志らくチルドレンだと言いたいのかしら。
「落語界に友達のいないことで有名な噺家」に、チルドレンがいるはずないだろう。
若き達人一之輔も、ちょっと露骨な自慢をぶつけられ、対応を困っている。
「自慢ですか?」とは訊けないし。自慢なんだけど。
そこで、「最近では昔ながらの変えない人のほうが目立つようになっていますね」と返す。
確かに一之輔落語のことを、「昔からの落語を変えているから凄い」なんて評価したら、いささか浅はかだろう。
むしろアレンジして違和感なく聴かせるテクニックに着目したいところである。
一之輔師、「アレンジになど落語の肝はない」と言いたいのだろうか。私は最初からそう思ってるけど。
今、(落語の演出を)変えたからって、(一之輔さんは)言われないでしょ? と志らく。
すかさず「言われますよ」と返す一之輔。
ここ、会話が完全に噛み合っていなくて、VTRを見返すと面白い。蒟蒻問答か。
志らくの言ってる、「言う人」とは、ファンのことなのだ。志らくの憎んでやまない、ツイッターで自分のことを叩く無責任な一般のファン。
だが一之輔師は、尊敬する楽屋の先輩たちを念頭に置いて、返答しているのである。
ズレに気づかない志らく、「言ってる奴はおんなじなんだ昔から」。ヤツじゃねえし。
それに対して、あくまでも楽屋の先輩を念頭に置いて、「(言われることの)よさもわかりますけどね。そういう人がいてくれないと困るんで」と恐らく本心を語る一之輔。
この後、噛み合わないやり取りが続くのかもしれないが、カットされていてわからない。
一之輔に「言う人」のひとりとして、柳家権太楼師を私は想像した。
さすが徹底した寄席育ちであり、落語界の掟を完全に内面化している一之輔。
この人から、先輩に対する不満を引っ張り出そうとしてもムダというものだ。
話はまた変わって、一之輔が芸能事務所に入ったこと。しかも志らくと同じ。
ワタナベエンターテインメントのことだ。
一之輔、強烈に早い返しでもって「別に追っかけてるとかじゃないですよ」。
メディアへの露出のメリットを訊く志らく。答を待たず、テレビに出ると、「落語をやらない人」というイメージが付くんだよと。
ここはわかる気もするけど、やっぱりわからないな。
「テレビに出ている人は落語をやらない」なんて、別に誰も思ってないと思うけど。
画面の外での活躍ぶりを知って、「テレビに出ているのにこれだけ落語をやってていて凄い」と勝手に評価する素人さんはたくさんいると思う。だが、自分の視ていない画面の外の仕事を勝手に決めつける人は、そうそういないと思うよ。
個人的に志らくがツイッターで言われ過ぎていて「テメエら落語も聴かないくせに」と勝手に反発してるだけじゃないの?
そもそも、志らくの嫌いな人は落語聴かないから、「聴いてから言え」ほど無益な発言はない。
私だって、こんな男のつまらない落語、金払って聴く気などないもの。
ちなみに、東京かわら版2月号を見る限り、志らくの2月の関東での仕事は2回のみ。これ以外に地方もあるのかもしれないが、言うほど落語やってねえじゃねえか。
対する一之輔は落語会が13(席数でなく日数)プラス、寄席3席(約25日)。
訊かれて年間970席やってると、渋々答える一之輔。あんまり答えたくないんだと。
自慢に聴こえないように、先輩に「そんなに落語やって、お前暇なの?」と言われたエピソードをぶつける一之輔。
志らくの発想だと、この先輩の発言を、テレビに出てる自分に敵対するものだとみなすだろう。でもそうじゃないのだ。
一之輔は、なるほど、それって真理だなと続けるのである。
先輩は単に皮肉なギャグのつもりでいったのかもしれないが、そこに真理を見つけてしまう一之輔。
さて、先日の「Zabu-1グランプリ」に次いで、上中下3回で終える予定だったのにまたしても失敗してしまった。
もう1回続きます。