浅草演芸ホールの芸協 その4(ナオユキ)

アロハマンダラーズのボーカル担当、桂夏丸師の高座は初めて。昨年の芸協落語まつりではモノマネで楽しませてもらった。
無気力相撲ならぬ無気力落語のマクラ。
この日は、大師匠米丸から来ているのだろうか? 昔の芸協っぽい新作。
調べても演題はわからなかったが、演芸ホールがツイッターにネタ帳出してくれている。想像通り米丸もので「洗濯物」とのこと。
なおこのネタ帳に書かれている、寿輔師の「名人への道」はいいとして、可楽師の「イスラムの世界」は嘘です。イスラムになんかひとことも触れてません。
イスラムの世界は、「いつものあれ」という意味である。

夫が会社から帰ってくると、妻が、あなたの履いてるのは隣のご主人のパンツよと。
団地の屋上で洗濯物干していたら、混ざってしまったのだ。時代だねえ。
今さら返すに返せないから、郵送することにしよう、という。
笑いのツボのまったくわからない噺だった。
いにしえの芸協の新作、円丈師以後の新作落語界において、滅ぶべくして滅んだのだということがよくわかる。
噺に漂う尻の座りの悪さの正体は見抜いた。
先日、ここで述べたばかりの「女性語」である。
1960年代の奥様ことばを落語にすると、現代においては異常なぐらい不自然なのである。
いや、実は当時からすでに不自然だったのだけど、当時は「新作落語だからそんなもの」として聴いてもらえたのである。
ご長命の米丸師、崇められてはいるけれど、噺家としては時代の変化に合わせて新作落語を変えていくことができず、だんだん落語界の中心から遠のいていった人だ。
子供の頃、テレビでたびたび米丸師の落語を聴いたが、常に面白かった。ただ、同時代性を保っていたうちだけ。
若いのに昔のものが大好きな夏丸師としては、昔の風俗を色濃く残した大師匠の噺に、独自の価値があると考えているのだろう。それはよくわかる。
でも、笑いのツボ自体は更新していかないと、ただの資料的価値で終わってしまうと思うのだが。
いっぽうで古典落語が滅びないのを見れば、違いは一目瞭然。常に時代に合わせているからだろうに。
古い新作だって、やり方次第。らくごカフェで聴いた、古今亭今輔師の「変わり者」(柳家金語楼作)なんて、実に楽しいものだった。
新作落語を作るためには、ベースに古典落語が絶対に必要。改めて思う。
米丸師の落語は、古典の基礎のない空中楼閣だったのだ。

さて、楽しみなナオユキ。先生と敬称をつけるべきだが、なんだか座りが悪くて呼び捨てでご勘弁を。
以前、古いYahoo!時代に検索でブレイクした、当ブログの記事。笑点に出たナオユキを調べてきてくださった。
浅草お茶の間寄席等ではおなじみの芸人だが、ライブの舞台を観るのは、前回の広小路亭からもう10年ぶりぐらいになるかも。
この日は、ナイツとともに、ナオユキを目当てにやってきた。
落語好きの私、色物目当てに寄席に来ることはそうそうない。
ひと昔前の「昭和のいる・こいる」が、数少ない例外だった。現在は落語協会のほうには、目当てで行く色物さんはいない。
だからって、色物は邪魔だなんてこれっぽっちも思ってないけども。

ナオユキ、ちょいとスカして、ちょいとニコっとして、薄い客席との距離感が絶妙。客が食いついてくると、またさりげなく距離を開ける。距離感のソーシャルディスタンス。
一見、台本を素読みする芸にも思えるが、もちろんそんなことはなくてライブ感満載。聴いてるだけで、言葉のリズムに高揚してくる。
外が雨降りだから、「雨が降っている。雨が降っている」からスタート。
知っているネタが並ぶが、実に楽しい。
色物といっても、ナオユキのスタンダップコメディの感性は、落語の漫談と近い。というか、落語と近い。
ただ、会話ではなくすべてが独白というのが独自のセンス。
「スタンダップコメディ」よりも、寄席の吟遊詩人という趣き。
なんと、酒場ネタがひとつも出なかった。「土曜の夜、男がひとりで飲んでいた」「やさぐれ女が飲んでいた」などの。
終始楽しかったので、終わってから出ていないことに気づいたのだ。
酒場のダメ人間ネタがなくても、高座が十分持つだけのネタがあるのだ。すごいです。
最後に、知らないネタも出てきてなお嬉しい。
学校時代は、先生からちゃんと話を聞けといつも叱られていた。
だが、今になってみると、話を聴いてもらえない先生の立場がよくわかると、舞台から客席に目をやるナオユキ。

やりすぎないのも、東京の寄席の粋な芸。関西弁だが江戸前芸人だ。
すっかり寄席に順応しているナオユキ。素晴らしい。

続きます。

 

作成者: でっち定吉

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