寄席芸人伝21「二六時稽古林家正朝」

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2019年以来久々に「寄席芸人伝」を。
さすがに取り上げるエピソードは、もうそうそう残っていない。だが、落語を聴く生活の中で、現実の事象に応じてこのマンガのエピソードをふと思い出す。

志らく弟子降格事件のときは、すでに書いた記事ではあったが「後生楽一門 林家生楽」という非常に緩い師匠のエピソードを思い出し、さらに「師匠とその弟子 柳家百蔵」という、温かい師匠のエピソードについても触れた。
無頼なイメージの神田伯山先生がブレイクした際は、無頼をそんなにありがたがっちゃいけないという警告を込め、「横紙破りの橘丸」を。

今回は現実で同時進行している事件から引いてきたわけではなく、自分自身の書いたものと、ナイツ塙の著書「言い訳」に触発されて。

参考記事:稽古すりゃいいってもんじゃない(らしい)

三遊亭遊馬師の高座を聴き、「稽古をしない」ことのメリットを書いた。ご本人が稽古してないと公言してるわけではないから、あくまでも私の想像ではあるが。
一般的には、特に噺家の場合、稽古の重要性が繰り返し語られる。どんなときでも稽古してればいいという内容の格言も多数存在する。
先人が説いた、稽古の重要性を軽視する気は、私にだってまったくない。特に修業中の身なら。
ヘタクソなのに稽古が嫌いで、当然仕事もないのに稽古と称して映画ばかり観ているアホな噺家より、稽古熱心のほうがいいに決まっている。
しかし、壁に向かってひたすら喋っていたって、必ずしもいい噺家になれるわけではない。

世間の思い込みをひっくり返してくれるエピソードが寄席芸人伝にあるので、取り上げることにする。
第8巻から、第105話「二六時稽古林家正朝」。

現在は「四六時中」というのが普通。四六24。昔は二六12。
林家正朝(せいちょう)という噺家は、少なくとも現在はいない。春風亭正朝(しょうちょう)、春風亭勢朝という師匠ならいる。

林家正朝は稽古の虫。高座に上がるとき以外は、楽屋でも常にブツブツ稽古している。
歩いているときはもちろん、飯を食っているときも稽古。
その稽古熱心振りを誉めそやす仲間たち。こういう噺家は上手くなるのだと。
だが大看板の金原亭馬喬だけは、水を向けられても「さあねえ」とつれない。稽古したって上手くなるもんじゃないからねとつぶやく。

正朝、新婚だというのに、稽古の邪魔になるからとかみさんを叩き出してしまう。
なんでもかみさんが、「桜がきれいよ」と稽古中の正朝に声を掛けたのが気に入らないのだった。
偉い、と褒める仲間を尻目に、馬喬だけは正朝に、お前の稽古なんてムダだと言い放つ。
悩みながら帰途につく正朝。
帰りの電車で人に絡み、隣の娘の婚礼に出た話を、くどくど語る酔っ払いを見かける。
なんだ、「うどん屋」みたいだなと正朝。そしてハッと気づく。女房がいったいなにを言っていたのかを。
二六時中ブツブツ唱えているよりも、周囲の人物や風景を見ることがどんなに重要なのかが、ようやくわかったのだ。
帰ってきたかみさんに、自分の不明を詫びる正朝。
かみさんと一緒に、朧月を見上げる正朝。これを機に、権兵衛狸をものにする。

タイトルの「二六時中稽古」そのものを否定したエピソードではない。
噺家たるもの稽古は常にしていないといけないのだが、まわりをよく観察することも稽古なのだと。

落語に詳しくない人からすると、「噺を覚える」とは丸暗記のことだと思う。
100席覚えたというのは、100席丸暗記。そんなのは、覚えたうちに入らない。
自分の言葉、自分の演出をぶつけて初めて覚えたといえる。
物語の主人公正朝も、ひたすら言葉を繰る稽古をしていたわけでもないはずなのだ。
大工調べがどうしたらものになるのか、徹底的に噺に迫ろうと稽古に励んでいたのである。ただ、ちょっとだけ離れることで、見えてくるものだってある。
実際に、実生活でこうした経験をしている噺家も多いのではないだろうか。それはマクラでは語らないだろうが。

私は、根拠も皆無なのに、すぐ他人にマウントを取る立川志らくが大嫌いである。
だが、この人がテレビにやたらと出たがることまでが、間違っているとは思わない。
世間の風に当たることが、本業に活きることだって多々あるはずなのだ。理論的には。
まあ、低視聴率番組がなくなる以上、結果的には稽古に失敗したとしかいいようがない。

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作成者: でっち定吉

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