落語の演出が時代とズレたら(東京かわら版から)

東京かわら版6月号は三遊亭円丈特集。
2月号の小三治特集よりはるかに熱さを感じるのは、私だけではないと思う。
小三治追悼コメントは落語協会内で完結していた。円丈師は西も含め広い広い。
そして円丈師の人間的欠陥が包み隠さず提示されている点も、タブーに満ちた人間国宝の扱いとまるで違う。

だがその熱いかわら版から、今日は円丈師でない内容について。
円丈師の記事、熱すぎてまだ冷静にさわれないんですよ。火傷します。

「演芸の時間」というコラムがあり、出門みずよ、寺脇研、渡邉寧久の3人が交互に執筆している。
4月号では、出門みずよ氏が立川雲水を褒めていた。褒められた当人、いい気になってツイッターに載せていた。いいけどさ。
今月は渡邉寧久氏。
最近、この人の三平インタビューがWebに載っていた。ちょっと提灯ぽかったですね。それもまあ、いいけどさ。

雲水や三平のことはいい。
今回の内容は、「その演出やギャグ、時代に合ってないんじゃないの?」という問題提起だ。
渡邉氏、コラムのツカミとして吉野家シャブ漬け事件を出し、時代に合わせられない旧態依然の落語の演出を糾弾していく。
例として、こんなもの。

  • かつて粗忽の釘にあった、「蜘蛛の上から釘を打ち込む」
  • 「花見の仇討」の趣向としての首つり
  • 猫を食べちゃう
  • 新宿2丁目ネタ(右手の甲をほほに当てる所作)
  • 客席を見まわし好みの殿方を探す

笑点の「嫁来ない」ネタは自然消滅したけども、どのみち出せなくなる運命にあった。
そのいっぽう、休業中の円楽師は三平いじめ・パワハラを辞めた後まで平然と行っていて、これに異を唱える年寄りファンはいない。勝手なもんだ。
ダチョウ俱楽部竜ちゃんが自殺したのを、BPOに求める芸人の感性もどうかと思っている。
世間の感性の変遷を見極められない芸人は、吉野家事件を笑う資格なし。
そういえば、時代錯誤の徳光和夫の「さんまはAKBを数人妊娠させられる」発言を編集しないで流してしまった水道橋博士がれいわ新選組から出馬するのだとか。

ともかく渡邉氏の、時代に合わない演出がよろしくないという大きなテーマには賛同する。
しかし、渡邉氏の挙げた例、本当に妥当か?

粗忽の釘の、蜘蛛と一緒に釘を打つ無益な殺傷は確かに聴かない。滅びた例である。殺しかけるのはまだ聴くが。
効果のない演出はスルーしていい。すべきだろう。
いっぽう、花見の仇討の首つりは、滅びていない例である。これから滅びるだろうと言いたいわけだ。
確かにそうかもしれない。
だがブラックなネタこそ使い方だ。「お客さんが不快になるからやめるべき」は単純にすぎるのではないか。
立川笑二さんは、首つりを検討するどころか、実際にやってしまって死人が出た演出にしている。
これを聴いて気持ち悪いと感じるのもわかるのだが、生で聴いた私はそうではなかった。
やり方次第である。まあ、談笑一門ならではの挑戦的な視野が気に障る心情があるとして、わからないではないけど。

猫を食べちゃうって、瀧川鯉昇師の長屋の花見だと思うが? 大家の飼い猫を食べちゃったという回想が入る。
これはかなり攻めたネタだと思うのだが、鯉昇師のあのふわふわしたムードでやるとギリセーフだと思っている。
ペット愛好家だって寄席に来てるわけで、「猫を食うな」という感性もわからないではない。
実際、当ブログにも書いたが、柳家喬太郎師(私の最も好きな噺家だ)のたいこ腹にも、若旦那が鍼でタマを死なせてしまうシーンがある。
喬太郎師、これにナンセンスさで挑んでいるのだけど、正月早々NHKの生放送でやって、女性客に露骨に引かれていたのを観ている。
だがその後、死なせるのをやめた演出も見かけた。

柳家喬太郎「たいこ腹」が変わった

しかし、「動物を殺すのはやめよう」なんてテーマがあるわけじゃないだろう。
演者が常に客の感性との間でギリギリのせめぎあいを続けている、闘っていることの証明だと思う。
それこそ円丈イズム。
時代に合わなくなったものは変えざるを得ないが、せめぎあいを放棄せよという主張には賛同しえない。

2丁目ネタというのは、文治師をいじる際の定番である。若手もやっている。
時代的にあまりよろしいとされるものではないだろう。
時代と人権への配慮は絶対にあるべき。だが私は、2丁目の人たちを異物としてあちら側に追いやってしまわない限り、まだセーフだと思っている。
柳家蝠丸師はマクラでこう語る。
「こないだ『芸協って知ってますか』って訊いたら『おかまの協会だろ』って言われました。まあ、おかまの人も2~3人入ってますが」
別にウケてるわけじゃないけど、私は好きだなあ。
そもそも、あちらもこちらもなく、一緒に遊ぼうというのが落語の世界だと思っているのだ。
今回渡邉氏に先を越されたと思ったが、私だってこんなの2018年に書いていたことに今気づく。

落語と人権

演出次第では性的多様性に貢献することだってある。この例が名を出したばかりの柳家喬太郎師の「芝カマ」。
しかしそれだって、「多様性に貢献するための落語」だとしたら、かえってずいぶん不自由な世の中であるわけで。

私にだって、既存のギャグにもの申すことはある。
たとえば、新山真理の血液型漫談を糾弾した。令和だぞと。
世間の、特に女性が血液型の話題が大好きだということはもちろんわかっている。だが、今どきこんな人権抵触する話題で盛り上がるんじゃない!と怒っているのである。
もっともこれだって、「バカな女どもめ!」と言ってしまえばたちまち説得力を失う。

最後の殿方を見回すというのは、女流がやる。ぴっかり改め桃花師匠や、遊かりさん。
あれが嫌だという感性は、女の卑屈さを感じうんざりする客もいる、そういうことでしょう。
まあ、これは確かになくてもいい。
ただ、別にあってもいいけどね。落語があってもなくてもいいのと同様。

(2023/1/29追記)

匿名さんから演題が誤ってると指摘があったのですが、匿名コメントは承認しない関係で直しませんでした。
いつまでも意地張ってもなんなので修正します。
「粗忽長屋」じゃなくて「長屋の花見」です。なんだか、すごくよく間違える。

作成者: でっち定吉

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