頼みもしないのに弟子が勝手にやって来るという大ウソ

元・三遊亭天歌、現・吉原馬雀という二ツ目さんの勝訴、その後もぼちぼち報道で振り返られている。
結構なことである。
三遊亭鬼丸という頭のおかしい噺家が、馬雀さんをぶん殴ってやりたいと吠えたことも、ぜひニュースにして欲しいのだが。
日刊ゲンダイがやればぴったりなのだが、あいにく対象者にコラム書かせちゃってるからな。

世間は「今は令和だ」というキャッチフレーズを使って、暴力元師匠を非難する。
それは当然だが、世間の論調は「行き過ぎはパワハラになる」なのだ。なんだか私とは根本的にズレている。
勝訴の判決文にも、実のところ異議がある。
これのズレについては、別記事で書いたのでそちらをお読みいただきたい。

圓歌パワハラ事件に関する認識のズレ具合に嘆息

落語の修業はそもそも厳しいものであって、ただ圓歌はやりすぎた、というのが世間の認識。
これ自体、もう違うと思っている。
圓歌はサイコパスであって、弟子をおもちゃとして苛んだ、これが私の見た真実。
どう考えても弟子への体罰は、育成として無意味だ。
こうした指導とやらで、一流になれるという因果関係はどこにもない。昔だって、ない。
弟子を殴ることが、師匠にとっての快楽だった。そう考えるほうが自然だと思うのだが。
判決文で、師匠の暴力が一応指導とやらに認定され、減額の要素になったのは違うと思う。まあ、民事の判決の、単なる落としどころだったと思うのだけども。
同業者でも、私のように「あの師匠が異常なだけで、大多数の師弟関係は平和」と考えている人はきっといると思う。
だが同業者も「修業が厳しい」という落語界のタテマエだけは崩したくないのではないか。それで異を唱えない。

そもそも、本当に厳しすぎる修業で一人前になった噺家なんかいないだろう。
素質があったとしても、人格が崩壊してダメになる。残念ながら、師匠のおかげでダメになった事実の因果関係は、誰にも立証できない。
実際には一流の噺家ほど、緩い修業をしてきている。
自分が緩い修業をしてきているのに、トチ狂って弟子に厳しく当たるイミフ師匠もいるけども。

さて、実際にはどこにも存在しない「噺家として一流になるためには厳しい修業が必要」というキャッチフレーズを導く免罪符がある。
このたび、鬼丸もやはり言っていた。
「弟子なんか勝手に来るもんだ。誰も弟子に来てくれと頼んでない」
師匠にとって弟子は負担でしかない、邪魔な存在。いるだけ邪魔だ。
なのに師匠は稽古を付けてくれる。ご飯も食べさせてくれ、たまには小遣いもやる。
こんなありがたい環境にいるヤツが、文句言うなと。

こんなこと、落語ファンでもお題目として唱えている人、いるでしょう。今、読んでるあなたもだ。
しかしなあ、こんなお題目でしかないものからだったら、「女の弟子は(男だっていいのだが)師匠の夜の相手ぐらいしろ」だって導けるよ。

ともかく、弟子が勝手に来るというのは、ウソだろう。罪深いウソだ。
確かに、その弟子はたまたまやってきた。だが、師匠のほうにも弟子を採るタイミングは巡ってくる。
真打になったら、いやそれ以前から噺家はみな、弟子が来たらどうしてやろうなんて考えているに違いない。
前座や二ツ目時代に、もう自分には見込みがないと思った人間だって、そんなこと考えると思う。
簡単な理屈だ。自分が師弟関係の中で生きてきたからだ。
師匠の師匠を遡っていけば、初代三笑亭可楽や、初代桂文治にだって行き着く。
先祖のことを考えれば、子孫のことを考える。これ当然。
派遣労働者でもってこの先の見込みがないオレは結婚できないし、するつもりはないという人だって、結婚という道しるべを前提にそう考えるものだ。
自分が将来的に弟子の来るような噺家でないと悟った二ツ目だって、師匠になったとしたらどうする、は夢想するに違いない。
生物と同様、噺家も子孫繁栄を考えるはずだし、そして子孫(弟子)を残すことは生存競争であり、本能だと思うのだ。

本当に弟子志願者がやってきて、生理的に「ああ邪魔だ」なんて師匠はいないと思う。
自分の存在意義に関わることだからだ。

圓歌は、自分の子孫を虐待してしまう哀しいサガの持ち主だ。親が子を虐待すれば通報されるのに、弟子なら許される?
そもそも弟子は、本能的に望んでできた結果だというのに。
鬼丸はおそらく、子孫を残せない。
すでに歪んだサガの持ち主っぽいしそれもバレてるから弟子は来ないだろうが、それでも師弟関係構築を夢想することはあって、その構築の仕方は圓歌に著しく近い。
だから、子の側から親を撃った息子に対し、叔父の立場でこれを激しく憎む。

「弟子は頼みもしないのにやってくる」というお題目を、ここにウソだと宣言したく思います。
まず志願者が来たら、師匠は本能的に喜ぶはず。子孫を残す権利ができたのだから。
生存競争にも打ち勝ったのだ。
育てるのが大変なのは否定しない。
三遊亭白鳥師のような徹底的放任主義がベストな気がするのだが、なかなかそうもいかない。
ついつい口を出してしまう。まさに、角を矯めて牛を殺す。
中には、育成の大変さに見合わないので子孫として残すことを断念する師匠もいる。これすなわち破門。
または、自ら廃業を申し出るように仕向ける。
この点からも、育てるのが大変だと師匠が勝手に考えた弟子が、移りたいと思っているのに許さなかった圓歌はやはり異常である。
子供を食い物にする毒親なのがよくわかる。毒親は、他の親が出てくると非常に困るのだった。

本日の記事の前編のようなものも書いてます。

弟子を持つ快感・師匠を持つ快感

 
 

作成者: でっち定吉

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6件のコメント

  1. 知らない世界のことだけど「本当に厳しすぎる修業で一人前になった噺家なんかいないだろう。」ってとこに妙に納得してしまいます朝様こと志ん朝が厳しい修行を経たとは到底思えません。稽古こそそりゃ熱心だったとは想像しますけど。

    1. そうなのです。いないのです。
      本当に師匠に煮るなり焼くなりされた結果、一流になった噺家連れてこいと私は言いたいのであります。

      1. 初投稿につき、失礼いたします。
        エピソードを聞くにつれ、先代圓菊一門は相当苛烈だったと思われますが、その辺りはどうお考えでしょうか?
        また、又聞きですが、芸協の小遊三師は「弟子が来ても一つも嬉しくない」という発言をされているようです。(小痴楽師がYouTubeで語っておられました。)

  2. 興味深く、読ませて頂きました。
    吉原朝馬師と鹿児島のおっさんの
    関係がどうなのかな?と
    そちらをふと考えました。
    揉めたりしないのかなと。

    1. いらっしゃいませ。
      弟子の移籍を暴力で阻止しようとした元師匠ですから、揉めないことはないでしょうね。
      ただ一門が違いますから、別にどうということもないのではないかと。
      それに比べると、古今亭内で移籍した乃ゝ香改め佑輔さんのほうがずっと気になります。

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