なんと、2016年6月の記事「落語のフレーズを唱えてみよう」の、4年後の続編である。
当時はまだブログ始めたばかりで、その後3年半続いている毎日連載も始める前。
前回はフレーズが噺の肝になっている落語を取り上げた。フレーズを抜いたら噺がなくなっちゃう。
「寿限無」や「たらちね」の言い立て、知っていると、一門によって細かい違いがあることに気づくので面白い。
寿限無なんてそうそう聴く噺ではないが、たまに聴くと「ポンポコナーのポンポコピー」と、知っているものと逆だったりする。
たらちねは、「千代女」がお母さんでなく本人だったり、お父さんが佐藤慶三であったり。
いまだに金明竹はマスターしていない。寄席で掛かると、声に出さずに一緒に唱えておりますが。
だがそれ以外にも、日々聴く落語の演目の中に、結構耳に馴染んだフレーズがあるものである。
思い出しつつ取り上げてみる。
鈴ヶ森
泥棒噺では、大変ポピュラーな噺。現在のケツの穴にタケノコを刺す型は、柳家喜多八師から来ているそうで。
新米泥棒が、親分から「口移し」で教えてもらう、強盗の口上である。
おーい旅人、ここを知って通ったか知らずに通ったか。明けの元朝から暮れの晦日まで、おらがカシラの縄張りだ。知って通れば命はねえ。知らずに通ったんなら命だけは助けてやる。そのかわり、身ぐるみ脱いで置いていけ。嫌とぬかせば最後の助。伊達には差さねえ二尺八寸だんびら物、うぬの腹にお見舞え申す。
覚えの悪い新米泥棒が切れ切れに言うので、ちゃんと言うのは親分の1回だけ。
「知って通ったかシラミを取ったか」、「カシラは欲張りだ」とか、でたらめを言って叱られる。
「ほぼ言えない」というギャグもよく聴く。
まあ、知らなきゃ新米じゃなくても言えないと思うよ。
孝行糖
わりと珍しめの軽いこの噺にも、楽しいフレーズがある。
与太郎が飴を売る際の口上である。
孝行糖、孝行糖、孝行糖の本来はうるの小米に寒ざらし、かやにぎんなん、ニッキに丁子、チャンチキチンスケテンテン。昔々もろこしの、二十四孝のその中で、ろうらいしといえる人、親を大事にしようとて、こしらえ上げたる孝行糖、食べてみな、美味しいよ、また売れたったら、嬉しいね。
歌うように唱えるもの。繰り返し唱えるのは、スケテンテンまで。
「孝行糖の本来は」の後に間を置かず、「うる(粳)の」と、続けて歌うととても雰囲気が出る。
「ろうらいし」は「老萊子」。
松竹梅
これもフレーズ落語の一種だろう。
実に簡単なフレーズ(一言)が覚えられない重度粗忽症なのが、3人並ぶうちの梅さん。
松「なった、なったジャになった。当家の婿どのジャになった」
竹「なにじゃになられた」
梅「長者になられた」
蛇になった、という婚礼で嫌な言葉をいったんあびせておいて、「長者」で落とすという高度な遊び。
だが、「長者」が覚えられず、「亡者」とか「大蛇」とか言ってしまう。
めでたい場面というのは笑いにしやすい。「高砂や」もある種似た構造の噺である。
「高砂や、この浦舟に帆を掛けて」と、これしか覚えていないで婚礼に臨んだら、親族が不調法でその先をみな知らない。
牛ほめ
前座噺でおなじみのこれも、実はフレーズが入っている。
この噺、与太郎を狂言まわしにしているが、実は聴き手が落語から、家の褒め方、牛の褒め方を習うのである。
そんな教養は、誰も持っていない。古典落語はちょっとした教養の宝庫なのだ。
うちは総体檜造りでございます。天井は薩摩の鶉木。左右の壁は砂摺りで、畳は備後の五分縁で。お床も結構、お軸も結構。庭は総体御影造りでございます。
「おとこも結構」はあまり聴かない。客が勝手に「男も結構」とヒアリングしてしまうためではないだろうか。
「なら女は」というくすぐりにしやすいけども。
「さゆうのたたみはすなずりで」を与太郎が繰り返すと、「佐兵衛のカカアは引きずりだ」になってしまう。
引きずりはいろいろな意味があるのだが、この噺においては女郎上がりだという嫌味になるのだろう。
たまに「おじさん気にしてるんだから」とおとっつぁんが解説していることがある。
昔は女郎上がりのおかみさんがたくさんいたという時代背景を描いているのだと思っているのだが。違ったらすみません。
牛の褒め方は、「天角地眼一黒鹿頭耳小歯違」。てんかくちがんいちこくろくとうじしょうはちごう。
噺の中でおとっつぁんが、菅原道真公の乗った牛だと解説を入れてくれている。
家だけ褒めて、牛を褒めずに終えられる噺なのだが、私は途中で切ったものは聴いたことがない。新宿ではやっていそうだが。
この他、笛や太鼓の音を再現するだけだが、「テンテンテレツクテレツクツ」「ぴーひーひゃいとろとーひゅーひゃー」の片棒も、実はフレーズ落語ではないかと思う。