月曜に出掛けられなかったので火曜に、2021年以来のスタジオフォー四の日寄席に向かった。
のだが開演時間間違えちゃった。アホだなあ。
行ったら始まってた。途中から入る気にはなれない。
もともと水曜の巣ごもり寄席と迷っていたが、水曜に改めて出向く気にももうならない。
でも、テレビ落語など取り上げていきましょう。
落語研究会、入船亭扇辰師の「野ざらし」が録れた。たいこ持ちまで出てくるフルver.
2017年に池袋で聴いて以来である。
乱暴でおっちょこちょいで手癖が悪くて自分勝手でバカで躁病で強引で年増好きで妄想の強い八っつぁんがたまらない。
こんなキャラでも、扇辰師は実にカッコよくて。
野ざらし、湯屋番(冒頭の同じ紙屑屋も)は、ひとりキ◯ガイ噺と総称される。
ある時期(さかのぼること結構前)からウケなくなってきたという。客が妄想に親しまない時代が来たのだ。
その後盛り返すかなと思ったら、やっぱり流行らない。昭和元禄落語心中ではダメだった。
湯屋番の若旦那はスケベなだけだからかそこそこ出るが、野ざらしの八っつぁんはさらに乱暴だからそのせいかもしれない。
このあたりの空気、「らくだ」の演出の変遷に見て取れる気がする。らくだも最近は乱暴なエピソードが刈り込まれていると思うのだ。
幽霊の女を釣り上げたいという、すっ飛んでるが罪のない噺であるからして、もっと聴きたいものだが。
意外と上方ではそこそこ出るのでは。
原典の「骨つり」は米朝が蘇らせたあと、再び滅びたかもしれない。オカマが出てくるから現代ではさらに難しい。
でも野ざらしが掛かっているのは誰にとっても幸せなことでは。
八っつぁんの活躍を楽しみつつ、扇辰師は一切照れないねえなんて思う。振り切ってる。
まともな人々に素っ頓狂な返答をし続け、水面かき回し、コツの来訪を妄想で膨らませ、あげくテメエの顔釣り上げてしまうのだ。照れたら負けだ。
噺家だから当たり前か。でも意外と、こうできない演者もいそうだなと思う。
演者がマジになったら、客はあっという間に覚めてしまう。
そんな人もいる。
つい脱線して「お母さん、そんな冷たい目で見ないでください。アタシだってね、そこそこ恥ずかしいんですから」なんて客に逃げるような人は、多分本当に恥ずかしいのだ。
振り切って、かつ振り切った自分と八っつぁんを面白がれる人でないとムリでしょう。
新作の人にやってほしいな。同期の彦いち師とか。あと花いち師なんてどうかな。
さて、高座で跳ね回る扇辰師を眺めつつ、ちょっと考えた。
女流落語家でやる人いないものかなと。
滅びかけた噺を、今から売り出したい女流がやって今さら何になる?
いや、振り切って野ざらしやれば、無敵の人になれるのではないかと思ったのだ。
私は常日頃、女流落語家は廓噺をやったほうがいいと勝手に考えている。
その発想の延長線上にあるアイディア。廓の上級バージョンが野ざらし。
最初に思いついたのが桂二葉さん。上方でむしろ野ざらしが流行っているのもある。
二葉さんの得意なアホの噺ではないか。
上方のアホの噺が東京に来ると、喜六が八っつぁんになることが多い。
なら逆に、八っつぁんは喜六にできるのだ。
与太郎だと、該当するキャラが西にないので飛躍的に難易度が増す。
もともと扇辰師の「竹の水仙」聴いた際、この甚五郎のおちょくり度合いが二葉さんにぴったりだとそう思ったのもある。
教わって、やらないかな。
アプローチはだいぶアホ寄りになるわけだが、それもいいのでは。
妄想噺を、とある師匠からとある若手が教わったらいいなという、これまた妄想です。
春風亭一花さんは、そのうち自分の師匠から教わって始めそう。
これはもっとサイサイ節を活かした、流れるような一席になるでしょう。いろんなスタイルが成り立つ。
そして劇中のコツが色っぽい。
ピッタリな気がする。
三遊亭遊かりさんもやりそうだな、と思ったらもうやってるみたい。
聴いてみないとわからない。
あと、三遊亭遊七さんも。
先に書いたように、廓噺の延長線上に野ざらしがあると勝手に思っているもので、廓噺に強い遊七さんいいんではないかなと。
ちょいと線が細い気もするが、意外と堂々こなしてしまうのではないだろうか。
ところで「野ざらし」って、どういうアクセントでしょうか。
演題としてはノ〈ザラシ〉。だが一般名詞としてはノ〈ザ〉ラシじゃないだろうか。
演題のほうが、なまってるんじゃないかと。
ただ扇辰師はマクラで、「なんで野ざらし出しちゃったのかね」を、後者のアクセントで言ってた。