あかね噺も、もう10回目まで来たか。
原作マンガより、アニメのほうが圧倒的にいい。
落語だから、声に出さないとなにやってるのかよくわからないというのはある。ただその前に、「超入門!落語 THE MOVIE」みたいな、演者と場面とを二重写しにする方法論が、アニメに向いていたということだ。
マンガでももちろん、先んじて全部やってるのだけども。
この回の落ち着いた寿限無のよさは、わかりやすいんじゃないか。
あかねは落ち着いた語りで客を引き付けておいてから、好きなことを始める。
寄席がモデルにされているが、こういうことは本当にある。
まだ寄席の空気がわかっていない色物さんが大爆笑させてしまったあと、やりづらい噺家さんが、空気をいったんリセットするために採る方法論がこんなの。
残存する空気感と戦っても、まるで無益である。
中には、自分自身で作り出した変な空気に飲まれたまま終わる若手もしばしば見受けられる。
あかねの教わった寿限無の言い立ては、こう。
寿限無 寿限無 五却のすりきれず
海砂利水魚の 水行末 雲行末 風来末
食う寝るところに住むところ ヤブラコウジのブラコウジ
パイポパイポ パイポのシューリンガン
シューリンガンのグーリンダイ
グーリンダイのポンポコナーのポンポコピーの
長久命の 長助
「すりきれず」は超レア。私は現場で一度も耳にしていません。
「水行末」は「スイギョウバツ」と発声している。少数派だが、立川流あたりでたまにある。
もっとも、後半繰り返すときは「スイギョウマツ」になってた。
「雲来末」でなく「雲行末」も多数派。
「ヤブラコウジのブラコウジ」は、標準だと思うかもしれないが実のところ少数派だ。多数派は「ヤブラコウジのヤブコウジ」。
「ポンポコナーのポンポコピー」は少数派。大多数は、逆である。
あかね小噺でもって、いろいろなバージョンがあることが語られている。
ただ、珍しいものも、そうでないものもある。
あかねの名前の由来が回想で語られている。
いい話に水を差して申しわけないけど、名前の由来って小学校で調べさせない?
もしかすると今はキラキラネームが多すぎてそういうことしないの?
満を持して登場したあかねが、「寿限無」でもって、爆笑改作のからし、しっとり人情噺をひかるをねじ伏せて優勝。
と言いつつ、あかねも改作寿限無なのであるが。
ただ、寿限無の改作なんてどうやってもあざとくなるものではある。
あざとくしない方法論に進んだことは、褒められていい。
「名前全部付けちまえ」あたりを語ることは、ほぼない。
ここはあかねが、「名付け」をいかに大事に考えたか、そういうシーンなのだ。
ひかるが、演者の姿が消えていくと感心している。自分のように声色を使うこともなく。
古来より、上手い演者は消えてしまうと言われている。これが読み物である講談との本質的な違い。
といって、ホールで聴いている客に、演者の姿がいきなり映らなくなってしまうということではない。
記憶をさかのぼったときに、演者の姿でない、架空の情景が浮かんでいることなら、しばしばあると思う。
上手い人の「尻餅」(年末の噺)など、「八っつぁんがかかあの尻をひっぱたいてるシーン」と「餅つき職人が餅をついているシーン」という、並立しえないものが記憶に残るものだ。
こぐまに対して志ぐま師匠が、「自分で考えたことに意味があるんだ」と語っているのはいいシーン。
いや、落語に限らずなんでもそうだろうけども、自分で考えないと身につかないし、描けない。
逆に、勘違いした高座を続けている弟子に「違う!」と叱りつけたところで、わかるよしもなく。
気がつく人は上手くなるし、そうでない人は伸びない。それだけ。
「了見」というのはいい言葉だが、ちょっと便利すぎるきらいもあったりして。
素人が、とりあえず使っておくとそれっぽいワードでもある。
寿限無が川に落っこちた以降は、原典を活かしたあかねのオリジナルである。
一生師匠が「お前の来ていい場所じゃない」とあかねに言い放ったのは、あれですな。
談志がM-1グランプリでもって、テツandトモに言ったというやつですな。
優勝決定シーンを描かないのは洒落てていいなと思う。
からし君がくやしげに語る、「素人とプロ論」はたぶん間違っている。
素人とプロは、技術のうまいへたでも、発想の豊かさの違いでもないと思う。
これは長くなるのでまたの機会に。
今回のカメオ出演は林家あんこさんに、古今亭伝輔師。もう、どこで出てるのかわからない。
ではまた。