落語の間違った常識は正しましょう

落語のニュースなど読んでいると、なんじゃこりゃということはよくある。
間違った報道は、間違った常識から生まれる。
間違った常識は、元から絶たねばダメ。
そんなのを集めてみました。常日頃から当ブログで繰り返し書いている内容ではある。

落語芸術協会は新作主体じゃありません

初心者向けのコラムでもって、「落語協会と落語芸術協会は何が違う」という記事が定期的に繰り返し生産される。
そして毎回、「落語協会は古典落語主体。落語芸術協会は新作落語主体」というウソが繰り返し湧いてくる。
そんなコラムが最近ようやく消えた(順位が落ちた)と思っていたら、また新しいのが出てきた。

芸術協会も現在は古典落語主体ですから。
で、新作落語が盛んなのは、むしろ落語協会なのである。
そもそも、「所属協会」と「古典か新作か」を結びつけるほうが乱暴ですね。「人による」としかいえない。
ちなみに、「落語協会 落語芸術協会 違い」の検索1位は長らく当ブログですけどね。
ネタ記事なのでAIには拾われない。

落語協会と落語芸術協会は対立してません

先代円楽(楽太郎)の負の遺産だと思う活動がある。協会統一(ただしビジョンのない)である。
おかげで、「落語の協会が分かれているのは、喧嘩があったに違いない。そうでないと、いくつも乱立するわけがない」という変な常識を、知識のない人がイメージとして持つようになってしまった。
確かに立川流と五代目圓楽一門会は、落語協会から分裂してできた組織。ここには軋轢もあったし、今でもなお多少ある。
しかし、落語協会と落語芸術協会は、別に対立した歴史はない。
分裂して誕生したものでもない。
噺家は、どこの所属の師匠であっても自由に稽古をお願いしに出かけている。
一部軋轢も残しつつ、基本的には仲良くやっている。
一般人の常識である、「なんで一つにならないのだ」のほうがそもそも余計なお世話なのである。

「真打」は落語の上手い人を指す言葉ではありません

昔々、「実力ある者のみ真打にする」という時代があった。
しかし、人間が真打を決めていると、不平不満が当然に出る。
現在は年功序列真打が基本である。たまに抜擢はあるが、おおむね平和でいい。
その代わり、「真打だから落語が上手い」という物差しはどこにも転がっていない。
「真打だから上手いに違いない」もまるで成り立たない。そもそも年功序列だからだ。真打になって、寄席に呼ばれなくて廃業同然だが一応現役という人も珍しくない。
年功序列だったら、真打の披露目がめでたくないか、そんなことは全然ないです。

ともかく、こんなある種平和な時代に、「あかね噺」では「真打昇進試験」をテーマにしてしまった。
あかね噺は繰り返し取り上げてるし、いいところもある。
だが真打昇進というテーマが、まるで時代に即さないものだということは声を大にしたい。
現代では、真打昇進は目標になり得ない。

「立川流は厳しさ随一で、実力も随一」なわけはない

あかね噺の「阿良川流」のモデルが立川流。談志が落語協会から飛び出て作ったもの。
原因はいろいろあるが、「殿さまでいたい談志が弟子を引き連れた」という評価は、わりと一般的である。
ともかく、円楽党(現在の五代目圓楽一門会)と同様、ひとつの一門だけでできた団体。

談志は真打昇進試験を弟子や孫弟子に課し、自分の基準を満たさない者は容赦なく切り捨てた。
なので世間は、「実力重視のすごい団体だ」と考えるようになった。
立川流四天王(もちろん、阿良川四天王のモデル)などが一世を風靡した時代は間違いなく存在し、今でも実力を評価されてはいる。
だが、孫弟子の代までそれが引き継がれていると思うのはもう、妄想レベル。
現在の立川流は、試験もなく、「師匠との見解一致で」真打になれる。
実力のある人は、イベントとして昇進トライアルを設定している。
だが、そうでないレベルの人もみな真打になっている。

実力が落ちたのか。
確かに落ちてもいるだろうが、上手くて面白い人も、今でも間違いなくいるのだ。
だが、そういう期待の人が、四天王の時代ほど客を集められていないのも事実なのだった。

「古典落語も初めは新作だった」はだいたい事実とは異なります

このフレーズは、実際に新作落語をやっていた人がよく語っていたのだった。
だがその後時代を経ると、本質はそんなものでなかったことが容易に証明されてしまった。

多くの新作落語は、消えていく。
三遊亭円丈以前に盛んだった「芸協新作」はほぼ消えた。今では珍品の扱い。
珍品として面白いものはなおある。ただ、古典落語になれるかというと、なかなかなれない。
意外と、上方落語に持っていけば古典ぽくなったりするのだけど。

「新作は残すために作るものじゃない」と強く語る柳家喬太郎師の古い新作落語を、最近よく現場で聴いている。
確かに面白い。だが「古典落語」にはならず、永遠の新作として、時代のズレも楽しいものとして命脈を保っている。
コア部分に普遍性があるものは今後も残るだろう。ただし、あくまでも新作として。

いっぽう現在盛んな古典落語は、実のところ最初から古典として生まれたものも多い。
笑話集などが元ネタになっている古典落語は、初めから「普遍的な噺」としてコアアイディアがこの世に出てきたものなのだった。

「新作落語だったが古典扱いになった」噺というのは、「試し酒」「猫と金魚」などが有名だが、そんなにはない。圓朝ものは今でも創作されたものとして、一般的な古典落語とは別扱いだし。
新作に近い改作を含めても、「船徳」「藪入り」ぐらいか。
最近では擬古典落語の創作が盛ん。「江戸時代に存在していたら嬉しい」という、古典っぽい新作には需要があるのだった。
でも、擬古典落語も古典になるかというと、難しい。
入船亭扇辰師がやる「蕎麦の隠居」は珍しく可能性があると思うが。

「江戸落語は笑いが乏しい」「上方落語は賑やかすぎる」は妄想

これはもう、かつて書いたものでまかないましょう。
江戸落語と上方落語は違うジャンルではない。傾向を過度に引きずり出し、「苦手だ」と声を上げるのは極めて非生産的であります。

「江戸落語と上方落語はどう違いますか」「同じです」

「自分は江戸(上方)落語のほうが好き」も、私に言わせりゃ無意味ですね。
「好きな演者」「嫌いな演者」が東西双方にいるのが当たり前の姿でしょう。
「好きな演者が東西どちらに多いか」なら、主張しても別段間違いではない。

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