喬太郎師の1席目は錦の袈裟。
二人会の仲入り前というと大ネタを出すのが普通である。錦の袈裟は、寄席のトリで聴いたこともあるが決して大ネタのイメージではない。
しかしながら大満足の一席。
劇中のシーンにたっぷりの場面があったわけではない。むしろ比較しても軽い。
軽いがゆえの満足。
弾ける与太郎が最高。
ふんどしは10枚。しかし若い衆たちの数を数えたら11人。
「11人いる!」
「萩尾望都みたいだね」
11人いる、というフレーズをつぶやき、客の脳裏にマンガのタイトルを浮かばせておいてから畳み掛ける手だれのギャグ。
「(11人目は)誰だよ」
「与太郎だよ」
現代では、ちょっと足りない与太郎だからといって11人目に数えるいわれはないところ。
だから演者はみんな工夫する。
三遊亭兼好師や好の助師は、「与太郎のかみさんが賢いからなんとかするはず」と理由をつけていた。
私はこうした工夫に、いたく感銘を受けている。
だが喬太郎師は初めから異なる道を行く。
そこで引っ掛からずに、与太郎パワーでもって乗り切ってしまうのだった。
時間をかけないことで、疑問を持たずに進めた客も多かったのではないか。
冒頭から奇声を上げている与太郎がたまらない。
与太郎はかみさんが恐い。すぐに長い物差しでびしびし折檻される。
でも最近はそれが快感に。
この先は、本当に普通。メタギャグもない。
お寺のシーンも、「親戚のキツネに娘がついて」など普通のクスグリ。
その普通さがたまらない。
高座を振り返って、今さらながらその普通さに驚いている。でも本当に楽しい一席で。
こんなふうには、二ツ目にもなれば噺家誰にでもできそうじゃないか?
そんなことは全くない。
喬太郎師には、常に噺を俯瞰して全てを捉える冷徹な視線がある。客がどう楽しんでいるかの冷静な判断も。
メタなギャグはお手のもの。でも、別に展開そのものがウケてるときなら入れなくなっていい。
錦の袈裟に関していうと、むしろ「手の加えなさ」が目立つだろうか。
お寺のくだりなど、もう少し膨らませたくなるのが普通かもしれない。でも膨らませるマイナスだってある。
廓では、隠れ遊びをするお公家さまの噂で持ちきり。
世が世なら、と断っているので時代背景は明治らしい。
ただの与太郎が殿さまとして持ち上げられている誤解が、どんどん膨らんでいく。
誤解に整合性が取れてしまうのは「百川」もそうだが、錦の袈裟の場合はとことん罪も実害もなくていい。
廓に偉い人が来ると嬉しくなるのには、苦界づとめの悲哀が背景にあるのかもしれないけど。そこまでは深読みしすぎか。
仲入り休憩後は再度の喬太郎師。
米團治師匠は上方落語協会でいらっしゃいます。私は落語協会で。
落語協会は昨年100周年でした。1年間寄席で色々催しものをしまして、企画会議を何度もしました。
つくづく思ったんですが、噺家の会議は長いですね。
5分で済む内容を、25分やってます。すぐにまぜっ返すんですね。
普通に喋ればすぐ終わるのに、何か捻ってくるんですよ。
私は会社勤めを1年半しかしていません。もう少し長くいたら会議にも参加したのかもしれませんが、すぐ辞めてしまったので。
と振って入ったのは新作落語。会議の場面から始まる。
書店員時代のエピソードは特になかった。
この日の私、タイムキーパーみたいな真似は一切しておらず、終演時に30分以上オーバーしていたので改めて驚いた。
この仲入り後も、巻く必要があったのだろう。
喬太郎師の新作落語で知らないものはめったにないはずだが、そのひとつ。
「柳家喬太郎 会議 ワンカップ日本酒 夫婦喧嘩」あたりで調べたら、すぐわかった。
タイトルだけは知っている「夫婦に乾杯」だった。昔から掛けてるみたいなのに聴いたことがない。
新作落語のタイトルはだいたい後付けだが、この噺は「乾杯」に引っかけて日本酒のネーミング会議だ。
両方いっぺんにできたのだろうか。
昔はワンカップ大関しかなかったが、今ではバラエティに富んでいるカップ酒。
でも、この酒は旨くもなんともないらしい。
ただしおつまみ付きというのが唯一の特色。
かみさんの手を煩わさなくていい、という点で妻に感謝する内容のネーミングばかり出す社員がいる。
会議の主催者はじめ、結婚生活の長い一同は呆れている。
なんだと、君は奥さんと会話をするのか! 感謝をするのか!
喧嘩しないのか!
会議は中止。
自分がおかしいのかと驚く社員。
家に帰ると、3年経ってもまだまだ可愛らしい奥さんが待っていて、「ご飯にする? お風呂にする? それともア・タ・シ」などと平気で訊いてくる。
うちの家庭は異常かもしれない。ひとつ、喧嘩を吹っかけてやろう。
無理やり妻の欠点を、あることないこと抉り出し、喧嘩を吹っかけ見事成功。
「喬太郎の新作に出てくる女」なんてフレーズが落語界にはあるぐらいで、いかにもそんな女が出てくる楽しい新作。
しかしその割にはあまり突出していない。日常の中の非日常を、楽しく描く作品である。
世界を裏返すような作りではなくて、常識でもなんでもないものを常識にした落語。
調べる限り、中身は徐々に変わってきているみたい。現在、最も刈り込まれているのではないか。
演芸図鑑の短い枠でも全然できるだろう。テレビで出したら大きな反響を生むことは間違いない。
サゲも気が利いている。
思ったが、この日の喬太郎師は、「価値観の逆転」を狙った2席である。
もともと落語というものはそんなものでもあろうけど。
価値観を裏返しつつ、激しいギャグはなく客を最大限に楽しませてくれた。
正座のできなくなった喬太郎師だが、芸にはますます磨きが掛かっている。
ピークと言っては失礼かも。まだ上がるから。