ちなみにこの会、携帯は鳴るし、アラーム音もやたら鳴る。
いつも書いているとおり、気にしたらいけないと思っている。
ただアラーム音っていうのは防げるものだから、わたし的には突然の着信音よりも、作為のほうにより近い感じを受ける。
鳴るか鳴らないかわからないものではなく、時間が来れば絶対に鳴るもんだからな。
蕨で落語会自体は多々やっているのに、なかなか客にはマナーとして落とし込まれていないようではあるが。
ハコ側の、注意喚起がちょっと少ない気がする。
ちなみに、木戸銭500円でそこまでやらなくてもという気持ちと、値段は関係ないという気持ちと、両方ある。
一番避けるべきは、立腹しすぎて高座の楽しい感想を自らぶち壊してしまうこと。文句はこれぐらいにして、見事な高座のほうへ。
ときどき湯飲みの中身をすする市馬師。カッコいい。
そういえば、相撲甚句も披露していた。マクラたっぷりなのだ。
親方と提灯屋の会話の絶妙さが素晴らしいなと思う。
大関花筏の身代わりになって巡業に行ってくれ。これは本来、とんでもない要請である。
でも、ここでいちいち本気で提灯屋がびっくりすると、噺に妙なアクセントがついてしまう。
この噺に限らないが、若手が失敗するのはこういうところですね。リアリズム追求自体は大事だと思うが。
市馬師の提灯屋は、記号的に驚いてはいるものの、すぐに全部飲み込んでしまう。応じた理由は男気に駆られて、ではなく遊んで2分もらえるからではあるが。
結局、とんでもない設定を、登場人物がたちが翻訳して、客の心中に着地させてくれているのだと思うのだ。
花筏の一般的な展開は、「提灯屋さんが、千秋楽の取り組みに花筏の名前があることに気づき驚愕する」、それから親方により理由が解き明かされる、だと思う。
だがいつの頃から、時系列通りのタイプが登場するようになった認識でいる。つまり親方が興行主と相談し、花筏出場を決めるシーンが先にある。
メリットとしては、時系列どおりなのでわかりやすいということか。
デメリットとしては、「え、なんで?」がないということ。
ともかく市馬師がこの、時系列タイプだったのでびっくり。師が時系列タイプの始祖なのだろうか?
昔からあるのかもしれないが。
親方、この事実を提灯屋に伝えなければならないが、まず力士たちに飯の支度ができたぞと声を掛けているのが楽しい。
青い顔をしている提灯屋に、「どうしたんじゃ提灯屋さん」。そら青い顔もする。
しかし親方が対処法をきっちり伝えたことで、案外物分かりのいい提灯屋。
この部分も、冒頭と同様、異様な設定を客に翻訳して伝える機能がある。
提灯屋は毎日五升の酒を飲んでいる。
おまけに女中の後をくっついて歩いてるんだそうだ。上方落語だと、夜這いまで描写するのだが、そこまではしない。
でもたぶん、そういうこともあったんじゃないでしょうか。
なら、土俵に上がらされるぐらいやむを得ない。
花筏は、ときに説明過剰となる。
千鳥ヶ浜は、父との話し合いで土俵に上がるのを断念したのだが、客席にはいる。
千鳥ヶ浜が土俵に上がらない場合、いったい誰が上がるのだろうなどと疑問点を上げればキリがないのだが、そういうところはスルー。
そして、どうやら千鳥ヶ浜、すでにまわしを付けているようでもある。
正直、市馬師の噺を聴いても、この疑問点は解消されない。
ただし、「疑問なんか持たなくていいのだ」というメッセージが聞こえる気がする。
涙を流して念仏を唱える二人に呆れ、適当なところで軍配を返すのも好き。これもぐずぐず描写しない。
サゲが、他のものと違って非常にセリフっぽい。
「大関は張るのが上手いね」
「張るのが上手いはずだよ。提灯屋ですから」
と一瞬聞こえるのだが、「提灯屋ですから」についてはセリフのはずがない。
花筏の正体を知っているのは関係者だけだからである。
しかし柳家らしく、「提灯屋ですから」を客を向いて語ることで、瞬時にセリフが地の語りに変貌しているのである。
こんな二重写しでサゲを語った人は見たことがない。
なるほど。花筏の土俵のシーンは本来地噺っぽい。視点が花筏、千鳥ヶ浜、行事と行ったり来たりするため、演者が語る必要があるからだ。
しかし振り返ってみると、市馬師からは地噺のムードが漂ってこない。
思い出したのだが、昨年鈴本で聴いた「目黒のさんま」もそうだった。
目黒のさんまも地噺なのだけど、市馬師のものはセリフが多く、地噺っぽくないのだ。
これはもう、確信的に地噺からの脱却を図っているのでしょう。
そういえば。
千鳥ヶ浜の実力を描写するにあたり。
「もう強いの強くないのって…強いんですけど。日本語はときどき難しいことがあります」
これも、地噺に収めないという市馬師の深慮遠謀か。
大ネタ聴いて満足。
ここで仲入り休憩が入る。「寝床」に続きます。