柳家さん遊「うどん屋」(日本の話芸)

〆切はやっつけた。
寄席に行きたいが、代演の多い祝日の今日より、平日に行ったほうがいい。
幸い、テレビでいいのが録れたのでこちらを。

日本の話芸の常連、柳家さん遊師の「うどん屋」。
柳家の看板演目のひとつ。一度黒門亭でさん遊師がネタ出ししていたが、なにか用があって行けなかった。

さん遊師、80歳になったのだな。
それでも口跡もきれいで、語尾の切れ味がよく聴きやすい。
正直たまにアレと思う(あくまで口跡に限定して)こともなくはないのだが、常にアジャストしてくるようだ。
ご高齢になると、入れ歯の噛み合わせとか調整すべき要素が増えると思う。なのに立派なものです。

ちなみに当ブログの「隠しごとばについて」という記事にいくつか訪問があった。
「柳家さん遊 日本の話芸」で検索したものか。

うどん屋には酔っ払いの客が出てくる。序盤の中心人物だが、序盤に限らず噺全体を支配する。
蜘蛛駕籠と並ぶ、落語における酔っぱらい代表であろう。同じ話を繰り返すという共通点もある。
高座が始まる前の冒頭ひとり語りでもって、この酔っぱらいを演じる心掛けを語るさん遊師。
嫌なヤツになっちゃいけないのだと。実際、素人時代に聴いたある師匠のものは嫌なヤツだった。
酔っぱらいの客を嫌味に描かないのが師のテーマ。

そば屋のいい口調を振っておいて、うどん屋の間抜けな口調が楽しい。
馬石師から、さらに間抜けな口調のうどん屋を聴いた覚えがあるが、あれは替り目だったか。

酔っぱらいなのは間違いない。話は繰り返すし、うどん屋の都合に構わず話しかけて、また長いし。
なのに、師の宣言どおり、まるで嫌味がない。
そして、数ある落語の酔っぱらいには珍しく、あまり酔ってるように見えない。割と筋道通っている。
酔っていないようで、でもやっぱりできあがっている。
確かに、なんの縁もない他人に自分の話を延々続ける人というのは、尋常ではないのだ。
落語の登場人物は、一見してのリアルよりもそれらしいことが大事だと言うが、その見事な見本。

たびたび登場する私のバイブル、「五代目小さん芸語録」。
このうどん屋の項で、聞き手の石井徹也氏が、柳亭小燕枝(現・さん遊)師の一席を熱く語っている。
石井氏は、この酔っぱらいがジョージ秋山「浮浪雲」の元同心を連想させるというのだ。
好かれたいのに好かれない男を連想させて、切なくていいと。
さらに語り手の小里ん師は、この酔っぱらいは長屋から表店に引っ越したが、長屋時代偏屈だったから嫌われていて、娘の婚礼に呼んでくれたのは仕立て屋だけだったんじゃないかと。
それが嬉しくて仕方なかったのだろうと語っている。小さんの噺からそこまで見えたという。

だが、この一席と日本の話芸とは、わからないがまた違っているかもしれない。
日本の話芸の一席は、直接なにかを連想させるような強いものではない気がする。さらに嫌味が減ったのかもしれない。
もちろん透明度の高い酔っぱらいだから、今でも石井氏のように、聴き手自身の引き出しが開く人もいるとは思う。

水1杯くれと言い、うどん屋に「お冷やですかな」と丁寧に返事をされて噛み付くくだりからも、酔っぱらいの嫌味は出てこない。
水をお冷やというのなら、「鳴るは滝のおひや」「淀の川瀬のおひや車」「おひや掛け論」になるはずだと屁理屈をこねているのに。
さん遊師の方法論に共感し、完遂しようとしても、多くの演者はここでギブアップしそうな気がする。
さん遊師はこの直後に酔っ払いに謝らせているが、このくだりも滋味深い。ウケに走ったりはしない。
しかし、またしても「たんと水を飲ませて患わせようと」と因縁をつけている。
このあと普通なら、酔っぱらい側の「してやったり」を描きそうだ。さん遊師は一切そのような描き方をしない。

せっかく一杯食べてもらおうと相手をしてきたのに、うどんが大っ嫌いな酔っぱらい。
なら雑煮はと勧めると、酒飲みに餅を勧めるトンチキがあるかと。
このくだり、マクラの最後に振った江戸っ子のそば好きを回収している。
そして同時に、もうひとつ振っていた「そう言っても風邪引きのときはうどんに勝るものはなかった」についても、サゲに向けて蓋が開くわけだ。
噺ってのはよくできている。
しかしながら、「お前さんも風邪を引いたのかい」というサゲはやや難しく、スタジオ収録に集まったエキストラ客にはわかりにくかったようではある。
仕方ないね。

本のほうにはまた、面白いことが書いてある。
この落語はうどん屋の劇的でない、ある日常を描いたものなのだと。
災難に遭い続けるうどん屋だが、そもそもいつものことなのだ。
だいたい、江戸っ子がうどん嫌いなのがそもそもの災難だったりして。

繰り返して4回ぐらい聴いた。実に味わい深いいい噺です。

おまけ。
柳家さん遊師の年齢を調べるためWikipeiaを開いた。
師の経歴の欄に、二ツ目になるときの「小三太」、真打昇進のときの「柳亭小燕枝」の理由が書いてある。
これ、どうみても私のブログから引いてると思う。
私は構わないけども、いいのかな。師が高座でこう語っていたのは事実だが、その裏付けなんかないけれど。