あかね噺は15巻が出たそうで。
そのタイミングで14巻を買って読むのが私らしい。
14巻も15巻もクーポンで30%オフだったが、でも14巻だけ買った。
なんとなく、追いついてしまいたくないのだった。
13巻については、内容そっちのけで真打昇進試験という存在のいやらしさを書きまくってしまった。
現実世界で試験がほぼ滅びたのは、感覚として実によくわかります。
まあ、ハードルがあったほうがマンガにしやすいところは理解する。ただマンガでも、不正が行われることが示唆されているとおり、試験自体が公平とはいえない。
14巻に入るまえに、13巻について。
ちょっといいなと思ったところがある。
あかねの兄弟子まいけるが、一番上(あかね父)がいなくなったので急に惣領弟子としての責任を感じだしたくだり。
まいけるはもともと一匹狼気質だったので、ひとりでやれる落語界に飛び込んだ。
しかし繰り上げ惣領弟子になってからは、自我を引っ込めて弟弟子やあかねの面倒を見るようになったのだ。
作者が現実の落語界を観察し、師弟関係のこういった角度を見出したのは見事である。
惣領弟子が破門され繰り上がった人というと、柳家甚語楼師に、台所おさん師か。
おさん師は全然惣領弟子らしくないと、ひとつ下の弟弟子である柳家勧之助師がいつも語っている。いっぽうでは数多い弟子はおさん派と勧之助派に分かれてるなんて話もあるから、ちゃんと面倒見てるんだろう。
甚語楼師はよくわからないのであるが、それより破門の当人である柳家三太楼、現在の三遊亭遊雀師のほうに、まいけると同じ感覚を見る気がする。
元弟弟子・東三楼(菅元首相の選挙区に、立憲民主党から出て落ちた人)は、自己の書籍で遊雀批判を展開していた。
立場が立場だから、悪い感情を持ち続けていることは仕方ないと思う。だが、芸協に移った遊雀師、それはそれは慕われている様子が、ただのファンからもよくわかる。
弟弟子に対して師匠の悪口を吹き込んでやまなかった暗い情念が、一時廃業と移籍で弾けたものか。
ちなみに東三楼師は、騒動の渦中三太楼に殴られたそうである。それは確かに恨むだろう。
ともかく、殴られたのは師匠・権太楼ではなかったのだなという事実が間接的に導けたのであった。
どこかで書きたかった話をこんなところで書いてしまいました。
話を戻す。
前半にはウケどころも多い「たちきり」が前半静かで、完全な人情噺となる後半から客を引き込み、成功したという。
そんなことあるかな。
滑稽噺の場合は、前半我慢して爆発ということはままある。そんなタイプの演目もあって、時そばなんてまさにそう。でも人情噺で。
肝の据わったベテラン師匠が、前半をさらっと演じてウケを狙わない、つまり意図的にそうするならありそう。
人情噺にウケどころがある場合、普通はそこでしっかりウケさせて、笑いの貯金を後半に回すことを考えるのでは。まいけるもそういう意図ではあったらしい。
ようやく14巻の内容に。
あかねは二ツ目に昇進する。だが現実の落語界で、「二ツ目抜擢」はすでにないので念のため。
優秀な前座だから先輩を追い越して昇進させよう、という文化はないのである。立川流ですら、今度真打に昇進する吉笑さんを二ツ目に抜擢したのちはなくなった。
前座時代は、前座としてしっかり仕事をさせるのが現代の多数意見である。
逆に、コロナ禍の頃は前座が入ってこなくなったため、気の毒にも昇進が遅れたりなんかして。
あかねは着物や手ぬぐいを捻出するため居酒屋の仕事に精を出す。
これも違和感ありまくり。いや、気働きを覚えさせるために居酒屋に送り込んだまでは、談志の弟子と魚河岸のエピソードも彷彿とされるので、いいとする。
だが、バイトが仕事になっているというのはねえ。
最近は二ツ目も落語で食えるようになっているので、もともと恥とされるバイトをする人は減っているはず。
コロナのころはウーバーに手を出したりしていたようだが、それはやむを得ない。
故・柳家喜多八は料亭で皿洗いをしていたが、同業者が客としてやってきたと耳にして、すぐやめたのだとか。
ちなみに結婚式の司会とか、江戸名所ガイドとか、本業に関連する仕事は奨励される。ラジオなど大歓迎。
いつまでも居酒屋じゃねえ。
師匠・志ぐまはPARCOならぬPORCOで独演会。モデルはもちろん志の輔師。
文化に溢れた地のレコード店で、あかねにコルトレーンを買ってやる師匠。
「至上の愛」だ。これは難しすぎるぞ。楽しみ方がそうそうわからないのでは。
あかねは相変わらず落語ヴァースとやらで、初天神なのに他のネタ入れて、つかみこみ落語に精を出している。
これがすごく評価されているのも違和感ありまくり。もし寄席でやったら後ろの師匠に迷惑かけてえらいことになる。
ただ、子供の描き方が恐らくかわいいのだろう。
先日情熱大陸で見た桂二葉さんのアホ丸出し高座をちょっと連想した。
それはそうと、志ぐま師匠の「死神」。
マンガとしてこの描き方は出色であったと思う。
落語初心者は、マンガ読んで死神聴きたくなったんじゃないですか(死神ちゃんもよろしくね)。
水木しげるっぽい絵の死神もご愛敬。ちなみにえほん寄席の死神では、本当に水木しげるが絵を担当していた。
引き算の芸を評価するのも、芯を突いている。
噺をしっかり語れる人は、入れごとなくして一定のトーンを作り上げることができるのだ。
この一定のトーンに客を引き込んでいると、もうちょっとしたアゲサゲでもって、客の脳には電気信号がビリビリ走るのです。
あかね噺を追いつつ、「現実とは違う」と書くことは多い。大部分は、あえてそうしているのはわかっている。
だが、落語に対する個人の感覚というものについては、誰の意見も絶対の真実だ。
作者が落語界に感じた事実については、私はいっさい悪く思ったりはしない。
16巻が出たら15巻読もうかな。
それではまた。