それにしても、爆笑の漫談であった。
寄席のテンプレート漫談とは違う、最新の出来事によるフリートークスタイル漫談。
この手のもので楽しかったのを思い出すと、笑福亭希光さんであり、立川吉笑さん。西の人が多い。東では三遊亭白鳥。
もちろん東の人でも喬太郎、遊雀、それから花いち、竹千代、喜太郎など楽しいフリートーク型漫談は聴く。ただ、いずれも「いずれこのエピソードを作品として完成させる」という雰囲気がどこかに漂うのである。
西の人からは、この場限りで二度と出さなくても構わない気概を感じる。ネタが無限に作れるからだと思う。
落語とは別のスキルなのかもしれない。「すべらない話」系統の。
「この話が面白いので語りたい」という強い気持ちと、その話をするにあたっての聞き手との共感構築が秘訣なんでしょう。
ともかくこんな話は、事件の原因である枚方の米朝一門会に参加したとしても聴けないわけだ。東西問わず独演会だけの贅沢。
さらに師弟関係のエピソードでもある点が、落語好きとしては沁みるもので。
南天師、X上でこの漫談に「アスファルト」という演題を別個与えていらした。
モンベルに破れたダウンジャケット持っていく話も面白かった。修理費用がどんどん上がる。
そもそもなぜ南天師がコケるにいたったか。
駐車場と会館出口との地面は同一レベルなのに、間に盛り上げた仕切りがあったためである(車の乗り上げ防止のためでしょう)。
「ぼくは師匠の方しか見てませんから」という南天師、走り出せば当然コケる。
ちなみに会場に来る前、日本橋高島屋の本館と新館を抜けてくる際にも、同じ目に遭ったそうで。
高島屋めと憤る南天師であった。仕切りはペンキだけにしてくださいと。
マクラを明確に締め、今日の番組を伝えたあとで時うどんへ。
東京では時そばですが、演出が違うようでと南天師。
時うどんは、東京にいてすらしばしば聴くスタンダード演目である。たびたび聴いても飽きはしない、楽しい演目。
時間が長いためか、聴いたことのないエピソードがあった。
毎度おなじみ喜六と清八。夜道を歩きながら清八が、おい下向いて歩け。なんや拾えるかもしれん。
そして拾ったものを仲良く分ける妄想。
1両落ちてたら2分ずつ分ける。1分落ちてたら2朱ずつ分ける。
そないもらえるか、おおきに。
まだなんも拾てへんで。
豆が50粒落ちてたら。
25粒ずつやな。
ほな25粒落ちてたら。
12ずつ分けて、1粒お前にやるわ。
わしゃいらんわい!
なんで怒るんや。ほなわしがもらおか。
仲良く1粒半分に分けよやないか。豆割って…皮はどないする?
平和だね。
2軒めのうどん屋がまずくない、時そばに汚染されていない時うどん。いや、東京の時そばはまずくていいのだけど。
うどん、1杯のどんぶりにずいぶんたくさん入ってたなあ。
もし、中手がご所望だったのならすみません。でもそもそも、手を叩くスキはなかったと思うけど。
それはそうと、うどんおいしそう。
1軒めの屋号は松島屋。2軒めは河内屋。
1軒めも2軒めも楽しい時うどん。
南天師の工夫と思われるのは、前日をそっくり繰り返そうとするアホの喜六が、「お連れさんもうどんおつけしまひょか」というセリフを、「お連れさん」(前日の喜六本人)に向かって言ってくれと頼む場面。
2軒めのうどん屋としては、架空のお連れさんと話をしてるだけでもう十分気味が悪い。それでも我慢して、生身の喜六本人に語りかけるのだが、喜六から「わしの方見て言うな」と注文を付けられるのだ。
うどん屋はあまりのシュールな光景に終始引き気味であり、もう勘定ええから帰ってくんなはれと頼んでいる。
喜六は、「うどん食わんかて勘定がしたい」。いいなあ、アホの一本道。
さてサゲで喜ぶことになる。
私の嫌いな地のセリフの「三文損しよった」がない!
これ、日頃から本当にいらないと思ってるセリフで。
私だけじゃなくて、「おなじ噺寄席」を一緒に観てた家内も同じことを言っていた。
ここを抜いたのは、時そばの影響なのだろう。いいほうの影響は大歓迎です。
次が天吾さんの代演で、前日南天師と一緒だった桂弥太郎さん。
芸歴14年ですとのこと。吉弥師の惣領弟子である。
語らなかったし知らなかったが、郡上八幡出身とは珍しい。
弥太郎さんは千早ふる。東京ではおなじみ演目だが、上方落語のラジオ等であまり聴いたことはない。
中身は東西まったく一緒だけども。吉原が新町になる程度。
クスグリは控えめで、川の例えも入れないし、千早が吹っ飛んで戻ってくるなんてのもない。
スタンダード中のスタンダードだが、千早ふるはだいたい楽しい噺。
弥太郎さんの語りからは、米朝が強く聞こえてくる。ご本人からは大々師匠、つまり三代前ということになるが。
歌のわけを知らないところを強調せず、ウソ話はアドリブでスラスラ作る。