3月の落語も、各派集結の米丸追善興行があったり、毎年恒例新作台本まつりがあったりいろいろあるのだが、さらに優先したいイベントがあって。
忠臣蔵がやっと始まった。ずっと観たかったのだけど。
芝居自体観たいのもあるが、最終的には落語絡み。
とりわけ四段目から七段目までが観たい。いずれも落語で繰り返し取り上げられる幕である。
中村仲蔵や淀五郎を繰り返し楽しみつつ、原典が観たくなった。
2013年の暮れに歌舞伎座で観たことがあるが、幕見なので大序から三段目まで。
幕見で3回通えば四段目以下を観られるわけだ。
さっそく3月4日、初日に出かける。
帰りはみぞれ雪でした。
今日は、歌舞伎は好きだが格別詳しいわけではないでっち定吉の、観劇の感想です。
幕見のチケット購入は極めて進んでいる
安く芝居が楽しめるのが、歌舞伎座4階の幕見席。
コロナの際は閉められていた。
以前は自由席で、ずいぶん早く行って並ばないと観られなかった。現在は若干このシステムもあるが、大部分は指定席。
前日に確かめたら、四段目は売り切れだったが、夜の部最初の五段目六段目の席がある。
2,000円プラスシステム利用料110円。安いねえ。
チケットを購入すると、メールでQRコードが送られてくる。これを表示して提示すればすぐ入場可。
今でも自由席は現金払いだが、指定席はカード払いで簡単に入場。
振り返って寄席が恥ずかしくなった。
歌舞伎座だって、別にすごいシステム導入してるわけじゃないのだ。
タブレットでQRコードを読み込んでくれるが、これはスマホだって可能。要はやる気があるかないかである。
寄席の人たちなんて、「キャッシュレスだらけの世の中、せめて寄席だけはシルバー層にも優しい場所でありたい」なんて本気で思ってそうだ。
のりか様発見
初日だからか正面玄関に、片岡愛之助夫人がいらした。お客に挨拶するためなのだろうか。
ともかくオーラがすごい。
結婚したときは、歌舞伎界は格が決まっているところだから梨園の妻をやるのも大変だなんてよく書かれていたものだが。
4階から幕を見ていたら、1階最前列にのりか様が出てきて、なおもいろいろ挨拶していた。
愛之助は、七段目と十一段目の由良之助。なので今日は観ない。
しかし、今やずいぶん格の高い役者に映る。
日本人は少数派
幕見席は外国人だらけ。ほとんど白人。
コロナ前からこんな感じはあったが。
日本人はごく少ない。
外国人はタブレットを持って、セリフを逐一確認している。まだ耳から聴くガイドもあるようだが、イヤホンしている人は少なかった。
便利な時代だ。
これに関しては、落語を比較対象に出す気はないです。
五段目の斧定九郎
五段目は、ご存じ「中村仲蔵」の主題である。
四段目のあと、弁当幕に過ぎなかった五段目を、妙見さまに願を掛けた中村仲蔵の定九郎が劇的に替えてしまう。
その定九郎は本日、尾上右近。
おかるの父親与市兵衛を殺して50両を奪うピカレスク。セリフは「50両」だけで、とっとと死んでしまう。
死んでからも存在感絶大。
実際の芝居を観て、登場時間でいえばこんなにチョイ役だったのだなと改めて驚いた。
江戸時代においては、確かに嫌がらせであったろう。中村仲蔵の偉大さが改めてわかる。
右近の定九郎も体の芝居だけでカッコいい。
それにしても、娘を売って作るカネは、落語のほうでもだいたい50両だが、ここから来てるんでしょうかね。
イノシシ
猪が花道から登場し、勢いよく舞台を駆け回って消える。
猪を追っているのは早野勘平。誤って定九郎を撃ち殺してしまう。
この猪も、落語「四段目」(蔵丁稚)で使われている。
前足が市川海老蔵、後ろ足が小林麻央なんてかつて文菊師が入れてた。
このワナに引っかかって、小僧の定吉が芝居を観てきたことをつい自白してしまう。
六段目
六段目は落語ではあまりなじみがない、かと思ったが鹿政談に一瞬出てきますね。
豆腐屋が芝居っ気たっぷりにお奉行にことの次第を申し上げる際に、「それは忠臣蔵六段目であろう」という。
あと、淀五郎における中村仲蔵の切腹の指導において、それじゃ勘平の腹切りだと述べる場面がある。
勘平の腹切りはのたうち回ってもいいのだが、塩冶判官は殿さまらしく切らねばならない。
落語の観点からは着目されにくい六段目だが、改めて、実に面白かった。
早野勘平は菊五郎を襲名する菊之助。
昔、早野凡平って芸人さんいましたね。早野勘平から来てる芸名なんでしょう、とふと思った。
蛙茶番とか、権助芝居(一分茶番)とか、素人芝居の舞台でみんな勘平やりたがるという小噺は今でもよく聴く。
勘平、とか「おかるの亭主」とか、「与市兵衛の娘婿」とか希望して、みんな勘平になってしまう。
あれ一体なんです。カンペー式でしょう。
おかるを身売りする際の判人の源六という三枚目役の人がいる。
おやじどんの与市兵衛が帰ってこない。殺されたから当然。
昨夜の首尾を知るものがいないので、勘平たちも、おかるが後金50両と引き換えに連れて行かれることに戸惑っている。
もともと江戸っ子らしい源六、啖呵を切ってすごむ。
この際、「けれども、とか、だろうとかいうのは人を疑ぐる言葉だ」というセリフ(ちょっと違ったかもしれない)があり、ちょっと嬉しくなった。
落語のフレーズの始祖があった。
勘平は猪でなく定九郎を撃ち殺してしまったのだが、舅の与市兵衛を撃ってしまったのだと誤解し、罪の意識にさいなまれる。
ようよう帰ってきたら、女房おかるが売られていく。最後に与市兵衛の死体が運ばれてきて、姑に、婿どのが殺害犯なのではないかと詰められる。
因縁ドラマよのう。芝居だけでなく因縁というのは落語の怪談噺にも繰り返し取り上げられるところであって、なじみ深い。
「駕籠で行くのはお軽じゃないか 私ゃ売られて行くわいな」
というのは、「どんどん節」の冒頭。
ラジオ関西のラジ席寄席を聴いていると、余った時間でよく内海英華師匠が唄っている。
今日は「その1」を付けました。その2、その3は行き次第書きます。

