落語なんていうもの、私にとってはどこまで行っても趣味である。
若干の広告収入はあるが、狭い意味での仕事だとは思っていない。
あとはたまにWeb媒体に書いて仕事になるぐらい。無署名の安い記事である。
最近久々に書き、検索でヒットする記事を狙ったのだが、当ブログの既存記事が厚く立ちふさがっていて全然伸びてこないのだった。
昔書いたWeb記事で、今でもヒットするものもありますがね。
何度か書いているが、私は競馬に20年熱狂し、そして飽きてやめた。
あれに掛けた時間、今ではもったいなかったなと思うこともなくはない。
どんな趣味でも、いつかは飽きる日が来るのかもしれない。
熱中しているときには、飽きるとは思わない。
それにしても、競馬のジョッキーは人間としてのレベルが低いひとばっかりだ。
武豊は別格として。
競馬への熱中が徐々に冷めていったのは、馬ではなく人間のせいだと、後で思う。
当時から田原成貴とか藤田伸二とかトンデモな人はいた。
最近はむしろ悪化してしまい。なんとか調整ルームにスマホを持ちこもうと努力したり、地方競馬のほうでは人の部屋に侵入したり。
当ブログで取り上げたことのあるレジェンド騎手も、晩年ちょっとやらかした。
将来再び競馬に熱中することは、まずない。
落語に熱狂していくパターンは、結構ありふれていると思う。
- 落語とたまたま、劇的な出会いをしてこれだ!と思う
- 寄席や落語会に通い出す
- さらに熱中して、感想をSNSに上げるようになる
- あるとき、こんなものいくら通っても同じだということに気づく
- バッタリ足が遠のく
- SNSも放置
- 別の趣味を発見し、そちらで同じことを繰り返す
ざらにいますね、こんな人。
4の前に、プロの噺家とつながっちゃう人もいる。
プロとつながっても、今度はその人に飽きて離れていくなんてこともあるでしょう。
私は落語と劇的な出会いはしていない。小さい頃から演芸が好きだった。
いろいろあってここに戻ってきたのだと自認している。
いずれにしても、趣味は趣味。
いつか飽きる日がくるかもしれない。そんな恐れは常にある。
幸い、上の4に該当したことはないのだが、この段階が来るかもしれないという恐れは常に抱いている。
まあそりゃそうで、どんな見事な高座だからって、いつまでも劇的な感動を受け続けられるとは限らない。
それでも自分のアンテナを常に磨いていけば、しばらくまだ、劇的な感想は続くだろう。
しかし、アンテナを磨く作業に飽きてしまう日だって来ないとは限らない。
ちなみにプロの噺家も、落語に劇的に出会った人が多い印象。
職業として選ぶ場合、劇的な出会いがあったほうがいいみたい。
しかし、なまじ出会いが劇的だったがゆえに、落語に飽きてしまったプロも無数にいるのは想像に難くない。
職業だから仕方なくやってる人も多いだろう。仕事があればそれでもいいのだ。
大阪のラジオ聴いてたら、桂吉弥師が東京の落語会に出た際のエピソードが語られていた。
東京のレジェンド噺家が高座に上がっているのに、若手が袖で聴こうとしない、もったいないと。
吉弥師の嘆きもわかるいっぽうで、若手は寄席での修業中、いい高座なんてざらに聴いてるんだよなとも思ったりして。
ただまあ、そんな状況でもなお落語に飽きていない若手もいるはずだ。
だが、意欲は本人に求めるしかない。
落語に飽きる日が来たら仕方ない。
ただ、日頃から飽きないためにはどうするか、も考えてはいる。
行きすぎないようにする、というのもひとつ。
それから、大御所も二ツ目もまんべんなく聴く。
そして講談や浪曲も聴き、色物さんにもまんべんなく興味を持つ。
そして聴いた以上は、自分のフィルターを使って徹底的に解剖する。
さらに、落語を異なる角度から眺めてみる。
最近私が試みているのは、「落語における棒読みの積極的評価」である。
落語にとって棒読みがいかに役に立つか、いい作法か世間に知らしめたいなと。
今のところ、「落語 棒読み」で検索すると、私のブログ以外に出てくるのは、林家はな平師のnoteを除いてネガティブ評価ばかり。
AIによるまとめすら、落語の棒読みについてはネガティブ評価が満載。
世間に戦いを挑んでいるうちは、まだ飽きなくて済みそうだ。

