落語のメタ構造(スマホ鳴らし含む)

日曜劇場「キャスター」は面白いと思うのだが、永野芽郁がやらかしたおかげで数字が取れないのだという。
清純派の女優については、特にドラマ好きの女性層からすると裏切られた感が強いのだろう。感情移入しにくくなってしまっているようだ。
今後、出番が減っていくというのが世間の見立て。
ただ、それ以外の方法で一気に解消する方法はある。

永野芽郁をモデルにした不倫女優自体をゲストに出し、阿部寛に追及させればいいのだ。
事務所が許すなら、これが一番いい。というか、人気回復を狙って許すべき。
ドラマではニュース番組の裏方をしている永野芽郁自身が、男の俳優と不倫をした設定ならさらにいい。

ということを考えていて、これが落語につながった。
私の妄想から出てきた落語のメタフィクションについて今日はひとつ。

メタフィクションとは、劇中が現実に飛び出してきて、渾然一体となるもの。
演者ひとりいればできあがる落語では、わりとよく使われる手法。メタフィクションというかどうかは別にして。

落語自体がメタ構造のものもある。笑福亭羽光師がよく作っている。
NHK新人落語大賞を獲った「ペラペラ王国」では、落語の中の劇中で架空の話が登場し、この劇中劇でさらに架空の話が描かれて、どんどん多重構造になってくる。
最後に落語が現実に飛び出してきておしまい。
もうひとつ「俳優」という作品もメタ落語。
ともに劇中の登場人物が「マトリョーシカみたい」と述べている。

先の「キャスター」で例えると、永野芽郁が画面に向かって「私は不倫疑惑を持たれている永野芽郁です」と語り出すようなイメージである。
こんなのやったら評価爆上がりしそうだけど。

今日主として扱うのは、こんな超本格メタフィクションではない。
もっとささやかなレベル。
芝居用語に「第四の壁」というものがある。観客と舞台との間には、見えない壁が存在し、ここで世界が切り分けられているのだ。
落語の場合、マクラの際にはこの壁は開いているのだが、本編に入ると閉じられて芝居と同じ構造となる。
閉じられた第四の壁がたまに開くシーンを今日は主として扱いたいのだ。

マクラの最後に、本編のフリになるごく軽いエピソードを語ってから本編に入ることがよくある。
羽織はもう脱いでいることが多いかもしれない。
この切り替えの際よく、「…ということがありました。番頭さんや。あ、もう噺に入りましたからね」なんて演者が語ったりする。
こういうのが落語における、ごく日常的なメタ。
初心者だって、ここから噺だとわからないなんてことはさすがにないのに、なぜこんなことをするか。
これは演者から客に対するサインであろう。今、第四の壁が閉まりましたよという。
閉まったので、ここからは噺に没頭してくださいねというメッセージだ。
マクラの漫談が盛り上がったときにやると思う。つまんない(あるいはごく形式的な)マクラを振って入っても、こんな手段は邪魔でしかない。

ただ、本編に入ってもたまに登場人物の口を借りて、演者が遊ぶことがある。
柳家喬太郎師など、新作・古典を問わず頻繁に使っている。
前の演者のネタを引いて、「今日しか言えないことをいうのはよしなさい」とか。
「この噺、まだそんなに掛けてないんだよ。作りながら喋ってるよ」なんてのも。
「花筏」では、土俵に上がるなと息子の千鳥ヶ浜に命じる父親が、素人落語家に同格で話しかけられて不愉快になる喬太郎師になってしまう。
「道灌」では小町のくだりで、「百夜お通いなさい」を八っつぁんが「桃湯に入ってちょうだいかなんか言ったんだね」とボケる。
これに対し隠居が「桃湯ってなんだ。わからないクスグリなら省きなさい」なんて。

こういう手法、遡ると橘家圓蔵に行き着くのではないかな。
劇中でもって登場人物がいきなり「そういうこと(ギャグ)言ってるからお前は小朝に抜かされるんだよ」なんて。
本編冒頭の「もう入りましたよ」も使っていた。「あたしの落語は親切でしょ」。
これは斬新だったのでは。先代三平が客に話しかけるのは、メタというよりそもそも地噺(源平盛衰記)で、世界の出し入れが自由だから参考にはならないと思う。

このタイプの軽いメタは、近頃話題のスマホ鳴らしについても、対応策として便利なのだ。
浅草お茶の間寄席の収録も入ったトリ「ハンバーグができるまで」の喬太郎師、しんみりしたいいシーンで電話が鳴り、「電話だよ」。
手ぬぐい広げて指で押し、「電源切った」。
高座が壊れかねない場面で見事。

スマホ鳴らしの対抗策は、すでに本編に入っていた場合、これが唯一のやり方だろう。
携帯電話だけでなく、寄席ではいろいろなことがある。
空き缶や小銭が落っこちて音を立てたり、池袋演芸場のテーブルが、ちゃんと止まってなくてガタンと落っこちたり。
通路側の客を立たせて割り込んで来たり、時には高座の前を堂々横切る客もいたり。
なんだか知らないが池袋の下手(しもて)2列目でついたてをこじ開け、外に出ようとする婆さんがいたり。
このときはマクラに入ってすらおらず、上がったばかりの古今亭駒治師が、「ここは池袋なんですが、あのあたりだけ浅草ですね」。
結局、変な空気を一掃するため「出直す」という手段に出た。
高座がどの段階にあろうが、お客は一席の途中で出ちゃいけませんが。

そういえばGWで超満員の池袋でもって、昼トリの文治師の途中で立ち見客をかき分け帰っていった人がいた。
文治師、「幽霊の辻」熱演中で、噺の中で「こんなところに人が倒れてる!さっき帰ったおじいさんだ!」。
最も効果的な復讐。

柳亭こみち師が、人を立たせて割り込んだ客のほうをみんなが見るので、「あたしのほう見てくださいね」。
これも処理としては悪くないが、一人称。登場人物のセリフにしてしまったほうが効果が高いようである。

なんでも取り込むのが上手いのが三遊亭遊雀師。
スマホ鳴らしの際は、登場人物のセリフでもって「集中力が足りなーい!」としっかり客を叱る。ギャグとしてではあるが。
それはいいが、客席でくしゃみが出ると「くしゃみしてる場合じゃないよ!」。
おちおちくしゃみもしてられません。

羽光師レベルまでは行かない、お約束のメタクスグリもある。
「悋気の独楽」でもって、夜出かける旦那が寄席に行くという。
「今日は●●(高座の場所)でもって、▲▲(演者の名前)が出るんだよ。最近評判でね」
噺を問わず、たとえとしていい男が出たときに「▲▲みたいだね」というのもよく聴く。
仲間の噺家を登場させることもよくある。

落語の場合、こういうお遊びは劇的ではなく、ひっそりやる。
もともと芝居と違って、その世界が緩いのでしょう。