古典落語の「この噺」と一口に言うが、同じ演題でも中身が随分違うことがある。
東西で違うのは割と理解しやすいが、同じ東京において随分違う噺がある。
今日はそんなのを取り上げてみます。
Web上ではあまりこのような情報は書かれていない。しばしば私も不満を覚えたりして。
バージョン違いを調べる需要を狙っていきます。
御神酒徳利
まるで違う噺の例から。
一般的には柳家のものが有名。別題を「占い八百屋」と言う。
名の通り、出入りの八百屋が主人公。
自分を使ってくれない女中への復讐として、軽い気持ちでご拝領の御神酒徳利を隠してしまう。
占いの名人と見込まれ、上方へ同行を求められる。
現在、瀧川鯉昇師などが手掛けているのは、主人公がお店の二番番頭。
こちらは善意に基づき御神酒徳利を水に沈めておきながら、それを忘れてしまう。
お店が大騒動なので、占いができるという触れ込みで解決する。
こちらも上方に連れていかれるが、占い八百屋と異なり失踪しない。
失踪も企むのだが、結局神さまのおかげで解決してしまう。
まるで違う噺ではあるが、テーマは同じ。
落語の場合、最終的に成功するか失敗するかは大した違いではない。
それにしても、冒頭だけ出てくる「御神酒徳利」が共通している演題のほうが不思議である。もちろん悪いタイトルではないけれど。
江戸時代において、ゼロベースで演題付けるとしたら「占い旅」ですな。
へっつい幽霊
へっつい幽霊は、フルバージョンとダイジェスト版とがある。
勘当された若旦那が出てくるかどうかが大きな違い。
出てこないほうは、ばくち打ちの熊さんがへっついを引き取り、幽霊と対決するだけで、極めてシンプル。
若旦那が出てくるほうは、ムダを楽しむ噺というか。へっついから出てきた150両を吉原で全額使ってしまうんだから豪快ではある。
脇道も楽しいのだけども、長いほうの欠点は、へっついの現在地点が激しく変わりすぎること。
Wikipdiaに載ってるあらすじは、道具屋から若旦那の家に運ぶだけ。若旦那の家で、熊さんが幽霊と対決するとある。
だが多くは、さらにへっついを熊さんの家に運ぶ。
現在地点を移動しすぎて、なんだかいつもぼやけてしまう。
落語としての完成度が、冗長なストーリー展開のために犠牲になっている。そう感じてならない。
ちなみに、もう一つバージョン違いがあるのだ。さらに短い。
道具屋にへっついが繰り返し戻ってくる冒頭部を抜いたもの。
博打で勝った熊さんが道具屋を覗いて、いわくつきのへっついをタダでもらうという。
珍品ばかりやる柳家圭花さんから聴いた。割とメジャーな噺を自分でこしらえたのだと思っていた。そうしたら、亀戸梅屋敷で、三遊亭鳳笑師もこれを掛けていた。
夏の医者
噺自体ややマイナーなのに、たまに聞くたび中身が大きく違うなんてものがある。
最近雷門音助さんから聴いた「日和違い」は、易者は出てこない。隠居がでたらめを堂々言う人。
夏の医者という噺は、もう少しだけメジャー。
巳年の今年、季節を待たずすでに掛かってないだろうか。
柳家圭花さん(やはり珍品派)、柳家さん助師、柳家小はぜさんからそれぞれ聴いた。
全員落語協会で柳家なのに、なぜか中身がだいぶ違う。
隣の村から医者の先生を呼びにくる、そのルートも違うし、越してくる山の数も違う。
医者の急ぎぶりも微妙に違う。根本的に急いでいないのは一緒だが。
そして、患者がどうなったのかを描写するしないの違いもある。
うわばみに飲み込まれて下剤で脱出するのは一緒。これが噺の肝。
さん助師のものは、患者と医者が若い頃一緒に夜這いに行ったサブエピソードが入っていて面白かった。
夜這いの相手はおさよ後家。この噺が上方ルーツなのがよくわかる。不首尾に終わるのも面白い。
ただ、枝雀以降の上方落語界ではこの噺やってるだろうか? 私は聴いたことがない。
人為的他バージョン
古典落語だって最後は人の創作によるもの。
さりげなく変えていくことは多い。
それとは異なり、新作落語のごとく噺をいじる人がいる。こうして生まれた別バージョンも、やがて確立していくのかもしれない。
最近目立つのが瀧川鯉昇師。70を超えたお爺さんなのに。
鯉昇師、先人の型を引き継いでいこうという発想がそれほどないのではないかと思っている。
千早ふるはモンゴル編になり、蒟蒻問答は餃子問答になり。
それらは他の人はやらないが、やるかもしれないのがひとつある。
「蛇含草」。
鯉昇師は、人が死なないバージョンを作ってしまった。演題は蛇含草なのに、最初から蛇含草も出てこない。
今日はここまでだが、また続きを出すかもしれません。

