2分のインターバルは短すぎて、トイレに行った人が席に慌てて戻ってくる。
この休憩でない休憩の効能は、私にはなんともいえない。
柳亭小痴楽師登場。
おかげさまで、今年3席め。
師は、お盆の末広亭夜席の主任である。立派なものだ。
楽屋入りする姿を見たが、短パン履いてそこらのアンちゃんだった。
圓太郎師匠、いろいろ話してましたけど。
楽屋のことを高座で出さないで欲しいですね。あの師匠は頭おかしいですよ。
最近ぼくも、マクラ考えるんですけど不謹慎なネタしか思いつかないんです。高座で話さないほうがいいようなことばかり思いつくんです。
で、それを喋っちゃって、お客さんに嫌われて、本編に入るときにはもう最悪なんてことがあるわけです。
元々、不謹慎なネタしか思いつかなかったなんてことはなかったはずなんですけど。
なので最近はもう、あんまりマクラ喋らないで入ろうと思ってます。
余計なこと言っちゃって、客に嫌われるというのは一般論としてままあること。
小痴楽師からはないけどね。
私だって、A太郎(高座の写真を撮らない客への悪態)と鯉八(大谷翔平に骨折して欲しい)はそれで嫌いになったんだから。
だが小痴楽師、マクラを話すのを本気でやめるわけではなくて、主人公が不謹慎の塊である「天災」のフリであった。
天災、最近はあまり掛からないが好きな噺。
今年は春風亭貫いちさんから聴いた。
メジャーだったこの噺がすたれたのは、まさに小痴楽師の問題意識どおりの理由と思う。
現代社会には、夫婦喧嘩のたびにれえん状りゃんこ書いてくれなんて奴の居場所はないのだ。
だが小痴楽師、さすが。
落語の客に、乱暴なチンピラ八っつぁんから眺めた世界を味わわせることに最速で成功している。
別に八っつぁん、現代ふうに手加減したりしてないのに。しっかり母親は蹴飛ばすし。
こんなことがなんでできるか。八っつぁんがしっかり楽しいからだ。
しかし、楽しくてもやっぱり乱暴者を許せないのが現代社会。相当魅力がないと脱落しかねない。
そして、これは決して他人事ではない。
現に私も先月のシブラクで、立川笑二さんの黄金餅、その暴力性に辟易してしまった。
長らく聴いていて、バイオレンス溢れる創作の魅力を十分理解していた演者ですら、これである。
いっぽう小痴楽師には、そして八っつぁんにも、しっかり魅力があるのだ。
魅力は出すが、マイナス面は極力あからさまにしないよう気をつける。内面を深掘りしないことでこれが可能。
というか、八っつぁん楽しいけど中身がカラッポなのだ。
客は早々八っつぁん視点。
なので、天災という噺に漂う教養に深入りせず、もののわからない職人として噺に触れることになる。
この見方は非常に新鮮だが、小痴楽師の得意な一目上がりもそう。
こんなことが可能な秘訣はわかった。小痴楽師は、紅羅坊奈丸先生の視点は一切採らないのだ。
あまりにも例えが通じなくて困惑はしているが、先生悩んでも苦しんでも、困惑してもいない。 ただ、懸命に伝える。
先生が気配を消しているので、客は八っつぁんに共感しやすくなっているのだ。
天災が非常によかった入船亭扇辰師と比較すると、違いは明らか。扇辰師の天災には、無作法な若者と、世慣れたインテリ隠居、両方の視点がしっかりあって、どちらも楽しい。
小痴楽師は、意図的に片方隠す。
だから先生の発する裂帛の気合はごくひそやか。
小痴楽師の魅力がひとつ解き明かせた気がする。
「円熟の若さ」
である。なんじゃそら。
ジジ殺しだった師は、若さの魅力を知り尽くしているプロ若者である。
若さを知り尽くしているから、円熟の若さ。
このあたりが、圓太郎師にも好かれるのであろう。
そして師は、若さを振りまきながら同時に本物の年寄りも若い頃から内面化していっている。
年寄りの知恵みたいなものは機を見ていつでも出せる。
天災も、今後演者がトシを重ねると、スムーズに先生寄りに変わってくる。
噺家人性を綿密にプランニングしている、というより、ベテランになってからの設計がすでに仕込み済み。
恐ろしい噺家だ。
先生を訪ね、上がり込んでから羽織を脱いでいた。
先生の講話を聴いた八っつぁん、別に生まれ変わったわけではない。そんなこと、先生も隠居も期待してないけど。
ただし、ものを考える先生のマネがしたくなった。
ここから「てんせえを心得た」八っつぁんオウム返しの実践。まあ、オウムがやりたくなるのも講話のいい影響なんだきっと。
そんなに長い噺じゃないと思うが、なぜか時間を食う。
間延びした感はまったくなかったので不思議。
10分近くオーバーし、袖で馬石師に謝っているのが聞こえた。
馬石師は鷹揚に返していた。これ自体先生と八っつぁんみたいだ。