「一目上がり」の三・四・五を覚えよう

落語のフレーズ、決まり文句を覚えておくと楽しいことが多い。
たまに違うフレーズが出たとき、覚えてるからこそ違いがわかる。
寿限無とか金明竹で、違うのが出ると楽しいものだ。

今週も三遊亭歌武蔵師の鹿政談のフリである、江戸名物に違いを発見し嬉しくなった。覚えてないとスルーしてしまう。
「武士 鰹 大名小路 生鰯 火消し 紫 相撲 錦絵 伊勢屋 稲荷に犬の糞」
であり、知っているものと違って、元力士のためか「相撲」が入っていたのだ。
もっとも後で記憶を遡ると「火消し 紫 相撲 錦絵」でなく「火消し 錦絵 相撲 紫」だったかもしれない。別にいいけど。

フレーズシリーズ、今日は「一目上がり」。
披露目でよく出る、めでたい話。
同じく披露目でよく出る、黄金の大黒や寿限無とは異なり、噺自体は別にめでたい内容ではない。
でも、「一目ずつ」上がるところが、真打昇進にふさわしいのだろう。

この噺は楽しいフレーズの宝庫だ。
八っつぁんが隠居のうちで、雪折れ笹の掛け物を見せてもらう。

しなわるるだけはこたえよ 雪の竹

雪の重みでググッとしなっても、辛抱すればいずれ雪が溶けて元に戻るのだ。
こういうものを褒める際には「いい賛」だと言いなさいと教わる。

褒め方を教わった八っつぁん、調子に乗って大家の掛け物も褒めにいく。

近江の鷺は身がたし 遠樹の鴉見やすし

近くにいる白いサギは雪に埋もれるが、黒いカラスは遠くにいても一撃。
悪事千里を走る、を表したものだ。
近江はキンコウ。遠樹はエンジュ。

八っつぁん、覚えた通り「いい賛」と褒めるが大家は「これは詩だ」。
根岸の蓮斉先生の詩だ。

マイナーな落語の演目に「亀田鵬斎」というのがある。
だから一目上がりのこの詩も、鵬斎先生だと思っていた。
だが、文字を当たると蓮斉(ぼうさい)先生である。
そもそも亀田鵬斎のほうは「ほうさい」と認識していたが、Wikipediaではボウサイと振られている。
何がなんだかわからない。
ともかく、演者がボウサイと読んでいる一目上がりの詩の先生も、亀田鵬斎だと思ってはいるのだが違うのだろうか。

この次が医者の先生。
今度はサンでもシでもなくて、ゴだった。
サンとシ、それから七福神はすぐ覚えられるが、この一休禅師の「悟」を覚えてなかった。
今日覚えましょう。

仏は法を売り
祖師は仏を売り
末世の僧は祖師を売り
汝五尺のなかごを売って一切衆生の煩悩をやすんず
柳は緑
花はくれないのいろいろか
池の面に月は夜な夜な通えども
水も濁さず影も留めず

衆生はしゅじょう。なかごは中子。
有名な文句だからブレなどなかろうかと思うと、演者によって結構ある。
そもそもオリジナルの文句がちゃんと残ってないみたい。
なかごではなく「からだ」でもOK。
それから五代目小さんのものは、「池の面」の前に「色即是空空即是色」が入っていて、最後は「影も留めず水も濁さず」と逆であった。

ここでようやく、三、四、五と上がっていく法則を見つける八っつぁん。
あらかじめ六、と褒めてやろうとアニイの家へ。
アニイの家には七福神の掛け物が。そして縁起のいい回文が記してある。

なかきよの とおのねふりの みなめさめ なみのりふねの おとのよきかな

漢字を振るとこう。

長き夜の 遠のねむりの 皆目醒め 波乗り船の 音の良きかな

こちらは昔から有名な回文であり、ブレはない。ブレたら回文でなくなるし。

六、と褒めたのに七福神だと返され、なので隣にある俳句に「八」だねと八っつぁん。
しかし、芭蕉のクだ。

Wikipediaの「一目上がり」の項目には、こうある。

「こんにちでは多くの演者が『七福神』のかたちで落とす」

つまり、芭蕉のクまでは行かないと。
書いた時点での認識ではそうだったのかもしれないけども、私はクまで行かなかったのを聴いたのはただの一度だけだ(春風一刀さん)。
つまり現状、事実として間違っているので、直して欲しいなと思っている。
クまで行くサゲのどこが冗漫なのかまるでわからない。
「とんとん落ち」の非常にいい例だと思うし。

そういえば昔の音源聴くと、冒頭が今掛かるものとだいぶ違う。
今はほとんどが、「道灌」かなと思って聴いてたら一目上がりだった、である。
昔のほうが独自性が強かった。
小さんは、無筆の小噺「山田喜三郎」から入っていた。