そういえば、喬太郎師の2席目の登場時にさかのぼる。
楽屋でもって、のど飴をなめる人がいます。本番前に喉をすっきりさせておきたいわけです。
なめているうちに出番が来ます。
どうかすると、使いかけの湯飲みになめかけの飴入れてく人もいます。まあ、あとで自分でなめるんですからいいんですけど。
のど飴なめたまま高座に上がるという乱暴な人もいます。
それが今の私です(客爆笑)。
マイクに顔を近づけて、カリッと飴を噛む喬太郎師。
すみれ荘201号室は、オチケンがテーマ。
ここを押さえておかないと噺に入れない。なかなか大変なネタだ。なのでマクラが実に長い。
純情日記横浜編だったら、言い立てはあるもののここまで世界を掘る必要はないわけで。
金曜日、祖師ヶ谷大蔵キャンパスで練習をしたオチケンメンバーは、空いている上り電車で大喜利をする。
ロングシートに横並びになり、客からお題をもらったり。
意外と、お題くれる。
楽しくやってるが、梅ヶ丘で国士舘が乗ってくるので終了。
オチケンもたまにはナンパする。テニスサークルのフリして。
でも「するってえと」が出たり、ラケット振るのを扇子で演じたりして自爆。
マクラの最後が女子大オチケン。
われわれもナンパはしませんが、女子大のオチケンに行ったことがあります。
学祭に行ったら、女子大生の高座があって。
それが子別れなんですけど。私もめったにやりませんが、こんな話ですよ(サゲ付近をやる)。
それが女子大生にかかると、こんなのなんです。
私に再現は不可能だが、女子大生らしいふざけた子別れ。
「喬太郎の噺に出てくるみたいな女」と形容をもらう師匠にとっては、女子大生落語の再現はお手のもの。
面白かったんですよ。圧倒されて、声もかけずに帰ってきました。
これもまた、本編に関連する大事なマクラ。
オチケンと、オチケン女子大生をきちんと描かないと入れない。
すでに本編に入った際には終演時間を過ぎていたと思う。
入ってすぐ、「トリなのに古典じゃないんだね」。
新作が出て違和感を覚える客なんかいないと思うけど、令和の現代でも必ずこう語る喬太郎師。
でも、新作落語というものはだいたい寿命があるのに、なぜか生き続けている不思議な噺。
というか、一度死んだんでしょうかね。
喬太郎師は、「新作落語は後世に残すために作るのではない」という強いこだわりがあるのに、でも残る新作もあるというのが世の不思議。
喬太郎師のこのコメントは「落語教育委員会」の本の対談で語っていた。
そういえば同じ本で、噺を勝手に「すみれ荘201号」(室がない)として紹介するネットに怒っていたはずだ。
現代だと、本人がネットに出てきて語れば解決するのだけどな。
骨格としては学生同棲カップルの別れを描いた物語。
主人公と彼氏はまじめに行動してるのに、でも終始ふざけている。
主人公は地方出身の女子大生。母親の強い勧めで、田舎でお見合いをさせられる。
間を取り持つのは市会議員の吉川さん。
吉川(吉河)って五代目圓楽しか思い浮かばないのだけど。吉川潮先生じゃないよな。
吉川さんの特徴的なキャラと、お見合い相手が歌う東京ホテトル音頭が肝の噺である。変な肝。
調子いいので東京イメクラ音頭も。
吉川さんのキャラは、夜の慣用句の主人公にちょっと似ている。
古典落語とは完全に切り離された、完全なる新作落語のキャラ。
東京ホテトル音頭も、古典化したのかもしれない。いや、絶対にしないけど。
ホテトルというものが、言葉としては存在しなくなった今、こんなふざけた歌に古典的な意味が宿ったのかも。
それに、ちょっと昔の噺だという時代背景のおかげで、現代の常識から眺める必要がなくなっているのも大きい。
演者も、そんな説明はしない。
喬太郎師、この噺は今どこかでやってるのだろうか?
客にはドンピシャだったようだ。
変な客だったらやらないだろう。
今日のお客さんは反応も良く、悪い反応もなく、いい客だったと思う。
東京の西の外れにいい客が揃うとは面白い。
彼氏はオチケンであることを主人公に隠している。
しかし扇子は持ってるし、帯も足袋もある。バレないわけはないのだけど。
ストーリーがどうだという噺でもないのだけど、二段構えの裏切りが楽しい。
5日間に渡って独演会のレビューをしてしまった。
実に楽しい会であった。
喬太郎師、還暦超えてますます腕上がってると思うのである。
なにがというと、最近まったく失敗しないこと。失敗している高座、あるのだろうか? 私は知らない。
どんな状況でも、あまりいい客でないとしても必ず味方にしてしまう。
街中の会を取り損ねても、遠征しましょう。
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