江戸川落語会 その3(柳家喬太郎「おせつ徳三郎」)

仲入り休憩後は柳家小せん師。
先月勉強会で聴いた八五郎出世(妾馬)は鳥肌ものでした。
今日の目当てのひとりだが、「喬太郎師匠に挟まれた出番というね。邪魔にならないようにやります」。
まあ、作法としてはまったく間違いではない。
これは落語会というより、寄席のヒザ前のやり方。
宣言どおり、本当に喬太郎師を下支えする方法論で帰っていった。
結果大成功だが、前に出る小せん師も好きなんだけどなあなんて。

高座でお客さまに話さないほうがいい話題というものがあります。
まず政治ですね。政権与党に頑張れとか言っちゃいけないわけです。政権の嫌いな人もいますので。
それから宗教です。信仰は人それぞれですから。ここで布教とかしちゃいけないわけです。
それからプロ野球ですね。巨人大好きとか言ってますと、半分ぐらいは同意してくれません。
昔から、政治・宗教・プロ野球と言いまして、これはタブーなんです。
というわけで、今日は宗教の噺を。

要約なので、もう少しいろいろ語っていたけども、「働いて働いて働いて」の引用とか。
ちなみにプロ野球タブーはこんにちほぼ消滅している。まあ、使い方には気を付けたほうがいいとは思うけど。
だが、政治に気を付けるのはまだ現役。
まあ、世には外から「政治を批判しないのはお笑いではない」とか言っちゃう人もいるのだが。

宗教の噺とは宗論だろうと思ったが、違った。宗論をお持ちかどうかは知らない。
仏教の由来に進む。ということは、お血脈。
小せん師匠のもの、どこかで聴いた覚えがあるのだが、当ブログに記録はない。
地噺であり、喬太郎師の合間で軽くやるには最適な演目。そして、変に強い上げ下げを入れない小せん師にはぴったり。
地噺って、二ツ目だと張り切っちゃう気がする。そんなに数聴いてたかどうかはともかく、イメージとして。
真打でも、地噺の方法論としては脱線でウケるほうが多いだろう。でも、小せん師はやり方が異なる。
小せん師は、まずフラットに構築する。その分、ちょっとしたことで噺が跳ねる。
でも、やはり役割的に穏やかでくつろげるという。

お釈迦様の生誕のくだり、同級生の阿弥陀様が登場していた。
「やあ、あみちゃんじゃないか」というボケが実に小せん師らしくて、じわじわ来る。

善光寺についての脱線は、「善光寺は無宗派で、午前と午後で違う宗派の葬儀があるのも普通だそうです」ぐらいだった。
ウンチクだしね。

善光寺からお血脈を盗み出そうと企画する、閻魔大王は高市総理のモノマネ。
モノマネを似せる気はないのだが、口調だけ引用する。
そして石川五右衛門は、芝居っ気たっぷり。こんなお血脈は初めて聴いた。
この芝居っ気が、最後「ありがて~え」につながるわけだから、よくできているものだ。

トリは喬太郎師。
マクラは短い。
還暦超えてるが、いい大人にはなかなかなれませんと。
お店の主人が番頭と話している。娘のおせつが縁談を断ってばかりだよと。
番頭答えて、悪い虫がついてます。徳三郎と思われます。小僧の定吉から聞きだしましょう。

というわけで、花見小僧だが、喬太郎師の場合はおせつ徳三郎通しであろう。
高座では初めて遭遇する。
一応、桜の開花があったから季節に合わせてなのだろう。
テレビでは観た。浅草お茶の間寄席では、カットもあったのかもしれないが30分に収まっていて驚愕したものだ。
今日は40分強か。

花見小僧は実に楽しい。
定吉がかわいい。この子供は、キョン師でないと描けない。
ギャグは少なくても、お灸を据えられたくない定吉の気持ちが前面に出ているのでずっと楽しい。
徳三郎のうで卵が消えて、一瞬のうちにおせつが口を覆っている。
定吉「イリュージョン!」。
でも、こんなので遊ぶ芸でもない。

何度目かのお灸の脅迫で、主人が言う。
「自分の肉が炙られ、その臭いが自分の鼻にこびりついて落ちないぞ」だったか、正確には忘れたけども。
時としてピンポイントで猟奇的な喬太郎師。
あとで主人が、「私の知られざる一面が出た」とつぶやいてる。

そして大事なことだが、ばあやの導きで結ばれる若い二人が非常に初々しく、幸せなムード。
演者からのメッセージが客席に伝わっているみたい。
あとは、ばあやをあまり描かないことか。これで企み・裏切り感が消える。

切れ目なく刀屋へ。
暇を出された徳三郎の視点から物語が描かれる。
ここは喬太郎師も、刀屋の主人をしっかり描く。
説教臭くなく、若者を侮るでもなく、世の一つの真理を描く。
頭に血ののぼった若者に対して、全力で、ではないのだけど、真摯に向かい合う。
マクラで触れたとおり、こんな大人に、喬太郎師なりたくてなれないということなんだろう。でも、みんなそうじゃないか?
ひとつオヤと思ったのは、この主人、「大事な一人娘だ。婿を取らないといけない。お前さんじゃ家を支えるのにふさわしくないと思ったんじゃないか」。
このセリフは刀屋で聴いたことない気がする。ちょっと昔の価値観じゃないか。
でも、すごくこちらのツボにハマった。
とにかく若者をねじ伏せたいというわけでもないのだ。
ひとつの真理を見た気がする。
実際には、これはおせつの意思ではない。だから刀屋の価値観は間違っているということにもなるが、そんな単純なカウンター配置ではないと思う。
もともと刀屋の主人は知らずに喋っている、その限界の中で真理を述べるのだ。

徳三郎と、逃げたおせつが出会うのは偶然ではなく、かねてからの約束の場所であった。
徳三郎は、おせつの心変わりを疑った自分を深く責める。死んで責任取るとでも言いたげに。
そして、吾妻橋(だったか?)から身投げしてしまう。こんなところにいかだはない。

ふたりを死なせてしまうのは喬太郎師だけである。
心中を美しく描くのは、これだって昔の価値観。
しかし美学はいまだに生きている。

後半、客席が静まり返っていた。
これ自体、実に美しい光景であった。

満足でした。
その1から振っていったが、その3で終わってしまいました。

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