トリの雲助師匠登場。
出囃子「箱根八里」は唄入りだった。
トリになると、後ろのほうまで人が入っている。
当席は種々世間夫婦契(いろいろあるめおとのちぎり)として、夫婦の模様を描いた噺を出しております。
いよいよ本日は千秋楽。夜鷹そば屋という噺にお付き合いを願っておきます。
子供はいたほうがいいのか、いないほうがいいのか。
いなくていい立場から、「ない子に泣きを見ない」
古典落語の頻出格言を振る。
あと、子は三界の首っかせ。こっちは落語には出ない。
いたほうがいい立場から「かくばかり偽り多き世の中に子の可愛さは誠なりけり」。
夜鷹そば屋は、芸術協会で掛かる「ラーメン屋」(柳家金語楼作)を古典化したもの。
擬古典落語ともいえるが、もはや完全に古典化している。
古典化しているけども、古典落語の一般的な要素に溢れているようで、実はそうでない気がする。
噺の雰囲気が大きく変わるわけではないけれども、屋台が江戸時代の担ぐ仕様になっているのは、非常に効果的と思う。
なにしろ重いから。昭和のラーメン屋だと、大八車の屋台である。
いい噺だけども、雲助師のものしか聴いたことがない。
ラーメン屋に配慮し、あえて教えないとかそういうことではないようだが。
落語研究会で雲助師のものをかつて聴き、いい噺だなと。
しかしその具体的な肌触りは忘れていたかもしれない。なにしろこの噺、ほとんどストーリーないから。トリックもない。
子供のいない夫婦が、無銭飲食のあんちゃんにカネ払って、「ちゃん」「おっかあ」と呼んでもらうという、それだけ。
それだけがいい。
今こんな新作作れる人がいたら、神ですね。
トリックがないと、なかなか話は作れない。こんな噺が作れるなら、頑張ってトリック考える必要ない。
以前は、原典のラーメン屋と一緒の噺と思っていた。ラーメン屋自体がいい噺だし。
それはそうなのだが、ちょっと違うものを今回感じた気もする。
やはり雲助師が江戸時代に移しただけあって、江戸の町民の了見でできてる気がするのだ。
いや、現代人にとっては雰囲気だけだけどもね。
子供のできなかった夫婦だが、口ではあんたの畑が悪い、いやあんたの鍬が悪い。それに若いころ遊びすぎたからだろうなんて言い合っている。
でも二人とも、さすがりものをさずからなかったのだから仕方ない、そういう達観で生きている。
「石女」(うまずめ)なんて言葉があったくらいで、江戸より昔は子供ができないのは一方的に女性のせいだとされていた。
そんな常識を持っている現代人も多いと思う。
でも、実際の江戸時代はそうでもないみたいだ。
そりゃそうだ。里に返されたとたんに孕んだ女性なんてざらにいたろうし。
ともかく老夫婦は、いたわりながら生きている。
どうして爺さん婆さんになっても商売をやめないか。それは常連さんとのおしゃべりが楽しいから。
幸せな人生だが、子供がいたら孫もいて、とそれだけ思うことはある。
そこに覚悟を決めた無銭飲食のあんちゃんがやってくる。
朝からなんにも食べてないので、おそばを3杯。
最初からタダにしてやったっていいと老夫婦が思ってることは、しっかり描かれている。お金を持ってない可能性があることまで見抜いている。
食べ終わったあんちゃん、自身番に突き出してくれと。
あんちゃん開き直っているわけじゃない。じゅうじゅう覚悟の上だ。
刑に服せばもっそうメシでも出るだろう。シャバに出られれば、そのときはなんでもやってそば代返しにくるから。
それにあんちゃん、聞けば気の毒な身の上だ。
あんちゃんは義理堅い。ちゃんと責任取る気。
この噺には、悪人が出てこないのだ。
自身番は夜中じゅう開いてるからと策略でもって、夫婦はあんちゃんに屋台を担がせ、家に連れてきて酒をふるまう。
ラーメン屋も夜鷹そば屋も、「言葉を発するとはなにか」に迫った噺。
言霊が主人公。だから現代的でもあり、一方では古来から綿々続く要素に溢れてもおり。
この点が新作らしくあり、なのに古典落語にどっぷりつかった噺でもあり。
屋台の運び賃でもって、そば代は相殺。拍子抜けするあんちゃん。
でも終わらない。
今度はカネ(1朱)払うから、爺さん婆さんを「ちゃん」「おっかあ」と呼んでくれと。
ラーメン屋では「おとうさん」「おかあさん」である。雲助師の美意識からすると違うのだろう。
あんちゃんは身寄り頼りがない。ちゃんもおっかあも、そもそも口から発したことがないのだ。
だから、1朱もらっての仕事だと思っても、なかなか言葉が出ない。
なかなか出ない言葉を、そっぽを向いてなんとか言ってしまえば、嘘が誠になるのだった。
いない息子を、一度叱ってみたいおっかさん。1朱払えば息子から「おっかあすまねえ」と謝ってもらえる。
いない息子から、もうトシなんだからそば屋はやめたらどうだ、俺がいるじゃないかと言ってもらいたいおとっつぁん。でも、まだ俺の好きなようにやらせてくれと答えたいのだ。
ストーリーなんかないのに、言葉を発することで生まれる冬の夜の奇跡を描いた噺。
いや、奇跡なんかじゃないんだけど。
ジワーッと来ます。
言葉は生き物だ。
逆に、乱暴な言葉を使う芸人が、いかに言葉のブーメランを食らうかという話にここから持っていくこともできるのだが、また今度に。
あとは雲助師の演技力にしびれた。
雲助師は役者の演技が得意な人。
だが師の場合、どこまで行っても落語として成り立たせるための演技だなと。
師の豊かな語りが、私がよく褒める棒読みの語りに近接してくると感じた。これもまた今度に。