スクエア荏原あじさい寄席2(下・柳家花緑「笠碁」)

吉弥師の描く植木屋は、楽しいのに品がいい。
鯉の洗いを、手のひらに乗せていただく。さすがに旦那も、おてしょう(小皿のこと)使いなはれと呆れている。
こんな人、品がいいはずないではないか。なのに品がいい。
逆に言うなら、どこまで落としても品性が残るので、遊びたい放題。
さすが米朝仕込み。といっても、この一門の皆がみな、品のいい造形を描けるわけもなく、吉弥師の得難い個性というほかない。

旦那も、常に楽しい植木屋が楽しそう。
冷えた柳陰のごちそうしがいもある。
植木屋、意外と舌がちゃんとしていて、「みりん入ってます?」と尋ねている。
そう、柳陰はみりんと焼酎を割ったもの。江戸では直しと言いますな。
正体がわかっても、「みりんもええみりんなんでしょうな」となおも感心する植木屋。
ヨイショする男ではないのだが、なにせ気がエエので旦那も気持ちがいい。

わさびは初めて食する。八百屋の前に水張られて浸かってるのがこれでっか。
なんでソテツがこないなところにあんねんやろと思ってました(植木屋なので)。
なるほど、わさびが初めてなら、たっぷりつまんでしまっても自然な成り行き。

奥さまが席を外しているすきに、植木屋は嫁さんの愛すべき悪口を旦那にとうとうと。
暑さのおかげで尻にでんぼができて、植木屋に膏薬を替えさせる嫁さん。帰ってきたら、尻がぬっと出てくる。
屁で返事をする嫁。
こんなシーンが入っても、やっぱり品がいい。

そんなこんなで、隠し言葉の実践をしたくなるのが極めて自然で驚いた。
この日吉弥師は、多くの青菜を切り刻んでいった気がする。これから先、オウム返しを始めるまでに手数の掛かるものを聴くたび、頭が吉弥師に還ってしまうであろう。

鯉の洗いの代わりに出てくるおからの炊いたんは、ちょっと日にちが経ってやや臭いがしている。
でもやってくる友達は、臭いに気付きつつ、おからの料理は上手いとかみさんを褒めてくれる。
実に気持ちいい一席。

芸協の番組だが、前座以外は、仲入り後の色物が芸協。鏡味味千代先生。
私はなんと8年ぶりらしい。
メクリを指して、「かがみあじちちよ。ではありません」。
私、この近所の生まれなんです。ただ親が脱サラしまして、山梨でペンションを経営してまして。
そちらで育ちました。山中湖にあります。

太神楽にいちいち大きな反応をするお客さんである。別にいやらしくはなくて、演者もやりいいだろう。
五階茶碗と、毬と撥の回し分け、それから傘。傘はいきなり金輪から。
お客さんも舞台に上げて、紙風船を回させる。
味千代先生は高座に色気があっていいですね。

トリは柳家花緑師。
いつ以来かな。弟子はよく聴いてるのだが。

初めてこちら寄せていただきました。立派なホールです。
武蔵小山と戸越銀座から近くて、便利なところですね。なのにホールはひらつかホールという。
地元の方が多いでしょうか。あるいは遠くからいらしてる方が多いでしょうか。
いずれにしても、いちばん遠いのは吉弥くんです。もうすぐ帰りますけどね。

大人になると、時間の流れ方が違うといいますよね。みなさん、人生の先輩方も多くいらっしゃいますが、いかがですか。
みなさんの1年は半年ですか?

花緑師は、笠碁。
朝、雨が降ってたからじゃないかな。
これからの季節、寄席では雨の降る仲入りでよく出る噺というイメージ。

見事な編集が入っている。

  • 二人の友達は幼馴染ではない
  • それぞれお店の手代になってからの仲間。毎度遊びに来るほうの男は醤油問屋
  • 惚れた女と出かけるのに服がないので、慌てて呉服屋にやってきた。普段の服は醤油くさいと思われそうで
  • 10日で仕上げて欲しいという頼みを聞いてやった。それ以来の友達付き合い
  • だから、借金を頼まれて応じてやった歴史はない
  • 遊びに行くほうの男は隠居所で、婆さんとの会話でなく、ひとりごとですべてを語る
  • 菅笠とっとと取っている。花緑がテーマに据えた「待つこと」についてのサゲが入る

社会に出てからの仲間であるから、本来は節度をわきまえた関係なのだろう。でも待った待たないで壊れてしまった。
それを取り返すのは、柳家らしく劇的な部分はない。

ただなあ。なぜか。
噺の編集は見事なのに、申しわけないがさして引き込まれず。
花緑師の淡々とした口調は、登場人物の記号化に資する。余計なものが高座にあふれ出さないのはいいのだと思う。
私は特に日頃、こういう抑制の利いたのを買うほうだ。
なんだけども、同時に思う。

「この二人の老人、高座を離れた瞬間、存在しなくなる」

あまりにも、記号でありすぎているみたい。
もちろん高座を離れた登場人物の様子は、勝手に楽しむべきもの。
これが湧いてこない。
そりゃそうだ、記号だもの。いや、そういう話ではない。
もしかすると「待つこと」というテーマを演者が見出し、それに沿って噺を作り上げていったことによって、それ以外の要素が抜け落ちてしまったのではないか、そんな気がする。

古典落語の編集は非常に重要。だがそれだけ重視すると、どこかが傷つくのだろう。
個人の感想ですけども。

本日の東西競演は西に軍配が上がりました。

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