マクラについては、いろいろ思うことがある。想像多めの話です。
本来のマクラは、付属品
そもそもひと昔前、噺家さんの私生活を語るマクラというものはあまりなかった。
マクラは本来、枕詞が由来。本来論としては、古典落語に付属している小噺をいう。
泥棒の噺ならこれ、与太郎ならこれ、吉原の噺ならこれ、というものがある。
釣りのマクラなんてのもある。あいにく、野ざらしなど釣りの噺がめっきり掛からなくなって、最近では釣りのマクラも出番がない気がする。
「ずっと人が釣りすんのを観てるやつがいたんだよ」「ずっと観たかどうかまでわかんねえじゃねえか」「観てたんだよ。俺もそいつをずっと観てたんだから」
とか。
今ではマクラとはもっぱら、噺家さんが漫談の腕を競うシーンである。
この漫談も、一応はやる噺に関連していることが多いのだが、なんの噺やるか決めてなくてとりあえず喋ってる場合もあるので、あてにならない。
逆に、マクラ振ってるうちにやる噺が自然と出てくるなんてパターンもあるのでは。客は気づかないが。
マクラの分類
私はいろいろ分類するのが好きなのだが、マクラも分類した。
- 時候の挨拶
- 近況報告
- フリ漫談
- 古典付属小噺
- 新作小噺
これはネタ記事なのだが、分類自体はマジです。
よく考えたらこれ以外に、佃祭の戸隠さまの梨のくだり、藪入りのねずみの懸賞など、純然たるサゲの仕込みというマクラも分けたほうがいい気がする。
もっとも、マジメに分けてみたらこうなったというだけで、学会に発表する気はない。
本来のマクラは、語源から考えるなら4のこと。
だが、噺家の実力評価につながる現代のマクラは、もっぱら3である。
少なくとも「マクラ」の概念が分裂していることは認識されておきたい。
特に、漫談と小噺という、相当性質の違うものを両方マクラと呼んでいる不自然さについては。
マクラ漫談は稽古しているか
さて、今日取り上げるのももっぱら3。漫談である。
一応、やるつもりでいる噺に関係することが多いが、本編を直前で変えちゃうこともある(たまにご本人がそう語ってる)ので、関連性は確実ではない。
この自由な漫談、噺家さんは本編と同様に稽古してるのかな、という疑問を立ててみた。
私は、こうだと思っている。
漫談のおおもとは、実際に喋っている、つまり稽古しているに違いない。ただし、稽古によって漫談を固めてしまう人と、その真逆で、固めないことを意識している人がいる。後者のほうがアドリブに強いので、マクラがスリリング
柳家喬太郎師は、上記の4は実はかっちりしている。
だからこそというか、3はフリースタイル。これが師の魅力である。
この師匠が、落語界でもっとも自由に見える。いきなり話していた漫談から、思い出して関連する別の話を振ることも多い。
実にスリリング。
もっとも師の高座に通うと、アドリブのように振った話が、その場で一からできたものでないこともわかってくる(本当にその場でできる場合もあるようだが)。
だから漫談のほうも、そしてアドリブのように挟み込んだ別の話も、一度は喋っているのではないかと思うのだ。ただ、組み合わせが本当にアドリブなのかもしれない。
師は、マクラのパッケージ化を恐れている。だから、カチッと固めることを避け、あえて遊びの部分を残しているのだと思うのだ。
個々のネタは口に出さなくても、移動中に脳内で語っていそう。
喬太郎師と似ているのが、三遊亭遊雀師。
この師匠も、その場でしか言えない(事前に用意しておけたはずのない)ことをよく語る。
だが、遊雀師が急遽差し込んだ話の代わりに、抜けた(喋る用意だけはしておいた)ネタが隠れていると思うのだ。
マクラに設計図を導入してしまうと
「今日はこのネタ(マクラも、本編も)語りたかったのにな」という、ある種の執着は誰にでもあるはず。
だが、こだわる人とこだわらない人とがいる。
こだわらない人は、高座数も多いし、その場で喋らなくても全然気にならない。喋らないことでネタ自体忘れてしまうぐらいのほうが、マクラ上手なのではないか。
どのみち高座は生き物なので、予定どおりに行くはずはない。
こだわる人もいる。
こだわりとは、本編に向けた設計図を用意しないと喋れない人。
「まずこれを振って、そのあとこの本編」
ちゃんと計画している人は、二ツ目さんに多い。
そして残念なことに、この設計は、だいたいつまらない。
私がいつも嘆息しているタイプの人。
柳家圭花(現・華形家八百八)さんが、客の反応を見て「この話やめますね」と軌道修正していたのは目撃した。
やめるのが成功かどうかはわからない。ただ、設計図通りに進めようとする人よりはものを考えているし、客に寄り添っている。
設計図がつまらないというのは致命的。
そしてこれは、逆も真。
想定を固めているからこそ、マクラがつまらないのだ。こういう関係でもある。
客の反応も観察していないわけだから、もう何のために喋ってるのだか意味不明。
これが真打になると、設計する能力が不足していることに気づく人もいるようだ。
なので、私生活マクラをやめてしまう人もいる(オールドスタイル)。
そうすれば本編に傷をつけずに始められるわけで、実のところ非常に賢い方法。自分の限界は知らないと仕事もできない。
稽古は稽古でもちろん大変大事。
だが、鼻から息するもんの前でやるのが、本当は一番の稽古だと思うのだけど。
どんなマクラも一度は口に出していると思う
さて、喬太郎、遊雀といった人も、ネタの元を必ず一回は喋っていると思う。
いわんや大多数の噺家は、マクラの稽古をしっかりしているものとにらんでいる。
ただしヘタな設計図を作る若手と違うのは、稽古するにしても完全に固めていないこと。
一度始めた話を完遂するというのは同じでも、もう少し遊びの余地を残す。
客の反応にもアドリブで対応するし、ウケ具合を見て補足を入れたり、逆に抜いたり。
あとは、語る本人が楽しむことかな。
演者が楽しんでいないマクラは、絶対つまらない。
マクラの改善
マクラつまらない人は、「嘘」を混ぜてくといいのではないかと想像する。
つまらない日常生活から楽しいマクラはできない。マクラのためにいろいろ初めてみるのもいいだろう。
嘘を語りだしたら、恐らくこんな効能がある。
- 整合性が取れない(それでいい、と開き直れる)
- 嘘をつくのが平気になると、マクラが緩くなり、予定調和でなくなってくる
- 嘘をつく自分自身を楽しめるようになる
まあ、高座で喋ったこともない奴の無責任な発言なのだが、やってみる価値はあると思うのです。