再度東洋経済の記事に戻ります。
師弟関係にはとりわけ厳しい文治師も、弟子(空治)に次いで参戦している。
今回の騒動に関しては、おっつけ東洋経済から謝罪と訂正が入るのではないか。
ギョーカイ丸ごと敵に回しメリットは何一つない。
ただ、司馬龍鳳を擁護していた志らく師匠だけは、自称プロを擁護しないと矛盾する。
ライターの無知を非難する人が多い中、私は必ずしもそれには同調できない。
修業を終えないと落語家になれないのは、決して世間の常識でもないって。ヤフコメ読めばよくわかる。
より非難されるべきは、これを機に世に出ようとした自称プロのほうと思うのだ。
ライターは巻き込まれたものと思う。巻き込まれるのも自己責任だ、と言うならもう逆らわないが。
落語教室に通ったということで名の出ている遊三師匠にも迷惑だ。
ちなみに三遊亭遊子さんもこの落語教室出身のはず。もちろん正式に遊三師に入門してからがプロの始まりであり、教室時代はノーカウント。
参遊亭遊助という自称プロご本人の公式サイトを見たが、正直言って「山師」のニオイがする。
プロ(本職)としての実績も、相当に盛っているようす。
スケジュールには、天狗連としての高座も載せられている。
それは仕事じゃありません。趣味です。
今回の記事を仕掛けて一気に老後の仕事を確保しようとし、そしてしくじった。そう思える。
本物のプロを敵に回したことで、「社史落語」などの実績が多少あるにしても、それも今後否定されてしまうであろう。
ニセモノなんだと理解されれば、誰も頼まなくなる。
ギョーカイを甘く見ましたな。そして司馬龍鳳事件に無知だったのかも。
藤沢市主催の落語会にも出たそうな。木戸銭無料だが、ギャランティはもちろん出ているだろう。
司馬龍鳳事件(一宮市)の再来になりそうな予感。
つまり、お宅の自治体は偽プロに商売として依頼するんですかと。
だいたい藤沢市は落語不毛の地ではなく、しょっちゅう本物の会が開かれているのに。
はじめに戻り、「落語家に転身した」は返す返すおかしい。
- 修業を終えたのか?
- 落語で生計を立てているといえるのか?
- やっているものは落語なのか?
- 本物のプロに比べてウデがあるといえるのか?
すべてを満たさない。
2はかなり盛っている。
3は、古典落語で自称プロの需要はない。だからベンチャー落語家を名乗っている。
もっとも、委嘱されて落語を作ったり、オペラと融合したりなど、すでにある。
天狗連として仮にある程度上手かったとしても、やはりプロの土俵では比較してもらえない。ある程度落語に関わっている客は、還暦でプロ宣言した演者を、修業してきた本物と同列に扱わないからだ。
4についてはYouTubeに「参遊亭遊助」の落語が載っている。聴きたくはないが聴いてみた。まあ、想像を軽く下回るものでした。
そして「メグレのさんま」とかいう自作の作り方のひどさ。古典のつかみ込みと、オチないサゲ。
腕についてもなんら見るべきものがなく、創作もひどい。
もうちょっと、世間に向けて上手いと思わせる何かぐらいあるのかと、勝手に予想していたが。
挙げた基準だが、「このすべてを満たすのがプロ」だと言えればいいが、残念ながらそうはいかない。
一部にしか該当しないプロも多い。それどころか、1以外すべてに該当しないのに、プロだとみなされる人までいる。
だから、目安にしかならないことはお断りしておく。
そして、「師匠から口伝で噺を教わってないからニセモノだ!」というファンの見解も、意外と決定打にはならない。
そういうことがプロアマの区切りだともいえない。
それでもプロ自信が考える「プロとはこういうものだ」の基準にはなると思う。
記事中の写真に、夏越の祓を背景にしたものあるのおわかり? 大きな輪っかですね。
これ、円楽党の寄席や、落語会をやってる亀戸梅屋敷。
亀戸梅屋敷も天狗連に貸してくれるが、ここの高座を借りて上がったところでプロになったとは言わない。
実にいやらしいイメージ写真である。プロも使う高座で一席やったからプロだってか。
素人落語として高座に上がったのをカウントして、◯席達成なんてプロはいません。
「上」でもって、地方発の素人落語家がどこかで高座を披露したという記事に、いつも辟易していることを書いた。
ただその中でひとつ、役に立つものがあった。
落語は時代を超えたエンタメ! 地域に根ざした落語家 北山亭メンソーレ(琉球新報)
元志の輔門下の北山亭メンソーレという人の名は比較的よく見る。沖縄ではメディアにも出ていて、この名で芸能活動している。
この記事では冒頭に、《自らをあえて「落語家のようなもの」と名乗る北山亭メンソーレさん》とある。
記事の表題は「落語家」であるものの、この記載一発で私はこの人に好意を持った。記者に知識があってそう書いたとはとても思えない。
プロのシステムに乗っていないから、当たり前だが落語家とは本来名乗れない。
6年間は師匠についていたのだから、まだマシなほうだがそれでも。
ちなみに二ツ目にはなっていないから、上方システム(年季明けたら一人前)でもプロにはなれていない。東京ではなおさら。
落語界の周辺で活動していることをわきまえ遠慮がちなメンソーレ氏に比べると、東洋経済で落語家と自称している人は、修業ゼロで遠慮ゼロ。繰り返すがライターより本人の責任。
これはもう、心理的な反発があって当たり前。既存システムのイメージを利用だけしようということで、ただ乗りだからね。
春風亭かけ橋さんがなぜ移籍後の前座やり直しに耐えられたか。プロとして生きていく誇りのためだろう。
今日はひとまず締めます。
いくらでも書くことあるんですが。

