国立演芸場寄席@紀尾井小ホール2 その4(橘家圓太郎「短命」)

ヒザの柳家小春師匠を挟み、トリの橘家圓太郎師。
このトリのおかげなのか、圓太郎師の情報を求める訪問が当ブログに結構あった。
圓太郎師は好きでよく聴いてるのに、寄席のトリのときに来たのは意外にも初めて。
横浜にぎわい座の定席ではトリも聴いたが。
寄席四場では、むしろヒザ前の達人という印象。
とはいえ、ヒザ前の上手い人はトリも上手いのが寄席というもの。

そしてこの日の圓太郎師のネタは「短命」。
トリネタじゃないじゃんと思ったが、実に素晴らしい内容でした。

圓太郎師のお母さん、老衰でもって、今日明日というところなんだそうで。でも寄席は務めるんだなと。
実のお姉さんに、ムカつく師匠。お母さんのことでいろいろ言ってくる。
それだけならまだいいのだが、余計なことも。
お母さんもう1日早かったら、大谷の娘、あれお母さんの生まれ変わりだったのにね。
それから昨日だったらローマ教皇と同じだった。
姉のほうが母より先に逝くかもしれません。私がコロしますから。

とにかくも、人の生き死にについての前フリが、短命につながるのだ。
冷静に考えれば実の母がいまわの際にあるのに、バレ噺の短命だなんて極めて不謹慎だと思う。
だがブラックジョークを追求したなんてムードはまるでなくて、実にのんびりしている。

さらに入門時の話。
これはどこから来てどこに行ったのかよくわからない。
新生活の季節から来ていたのかな?
それとも入門時にお母さんが師匠に挨拶に来たという流れだったか?

私は高校を出て東京にやってきました。
18歳の春、だったらいいのですが私卒業が遅れてまして。19歳でした。
とにかく入門時は師匠にずっとついて回ってました。
住み込みですから、いつも一緒です。
師匠は当日独身でした。今もですけど。

圓太郎師の入門時、小朝師は独身だったのか。

短命の、聴いたことのない導入部。
考えごとしながら歩いている熊さんを、隠居が呼び止める、どうしたんだい熊さん。
ああ、隠居ですか。伊勢屋の旦那がまた死んじゃったんです。
熊さんと隠居の会話は立ち話らしい。
なるほど、別に悔やみを教わりに隠居の家に出向くわけじゃないのだ。

こんなの初めて聴いたが、バレ噺のためにネタを振ったような不自然さがまるでない。
ごく自然に、美人のお嬢さんの結婚相手が次々死んじゃうというミステリーの話に向かうのだった。
そして、隠居がニヤニヤしながら「短命だよ」というくだりもなくて、骨格自体は非常にマジメなやり取りなのも斬新であった。

それにしても、こんな小品、トリでどう調理するのかと思った。
結局のところ特別な方法論はないみたい。
圓太郎師は、この噺を長くやっても全然ダレないのだ。自然と持ち時間が埋まる仕掛け。
隠居がどんなに説明しても、お嬢さんの給仕でもって「手から毒が」、こたつでもって「足から毒が」と一人合点の熊さん。
このあたり、本当に面白い。

短命っていうのは結局、いかにボケて正解に到達しないかという噺になってしまっている。
いいものを聴いても、そういう気はする。
でも本当はそうじゃないのだ。熊さんは本当に、真理に到達しないのだ。
著しくアホだからと思うかもしれないが、そういうわけではない。
まるでわからないわけでもなくて、ほんのちょっとわからない。
「なによりもそばが毒だと医者がいい」あたりは本当にわからない。
「その当座昼も箪笥の環が鳴り」で、ようやく正解にちょっと近づく熊さん。

この日野ざらしが出たので、圓太郎師の野ざらしを思い出した。
ブログには書いてないので、たぶん浅草お茶の間寄席など、テレビで観たのだろう。
びっくりしたついでに先生の紙入れを懐にねじ込む八っつぁんが指摘されたあと、「いつの間に」と一言発するのがやたら面白かったのである。
短命の「やはり足から毒が」に同じ空気を感じたのだ。

いったん家に戻ってからも、よく聴く短命と空気が違う。
何にもしないダメ女房なのに、熊さんはあきらかにかみさんに惚れている!
そんな説明、一切ないんだけど。
熊さんは美人を眺めるならお店のお嬢さんだけど、かみさんという存在に関しては、目の前のこの女でいいみたい。
なんだか、「長命」で嬉しそうな熊さん。

圓太郎師、なかなか演目が被らないから不思議。
二度聴いた演目は、化け物使いと厩火事ぐらいではないかな。

この日はよく笑うおばちゃんトリオがいてよかったですね。

その1に戻る

(追記)

「短命」なのに一部「長短」になってました。
自分でも間違えそうで気をつけていたのに、やっぱり間違えました。
ちなみに「粗忽長屋」と「長屋の花見」もすごく間違えます。