新横浜コットン亭4(下・桂やまと「武助馬」)

仲入り後は再びやまと師。

私はこのあと、鈴本、じゃなくて池袋演芸場です。
便利になりましたねえ。新横浜からほぼ1本で池袋ですよ。

落語と歌舞伎の関係を色々振る。
歌舞伎になった落語もありますし、中村仲蔵とか淀五郎とか、役者が主人公の噺もありますね。

そこから武助馬へ。
珍しめの噺が聴けて嬉しい一方、先ほどの佃祭が大ネタ中の大ネタだったので、もう少し小品を出してほしいなんて気もする。
わがままだけど。
鯉昇師は武助馬、寄席のトリでやってたし。
それ以外では、春風亭柳朝師から聴いた程度。芝居の噺では、一分茶番(権助芝居)より出番が少ないのでは。
きゃいのうよりは多いか。
芝居のスケッチが多いので、割とたっぷりめの噺。

かつての奉公人の武助が、久々に顔を出した。役者になるといって辞めた男。
あれから芝居の本番上方へ行き修業をした。主人が「そういうところはマジメなんだね」と感想を漏らすのがおかしい。
片岡仁左衛門の弟子になり、土左衛門。
上方の水は合わないので戻ってきて、もう一度修業をする。今度は中村勘三郎…でなくてその向こうを張る中村かん袋という師匠。
聞いたことないねえ。
かん袋のもとでいったんズダ袋の名前をもらうが、結局は本名の武助で活動している。

武助のもらった役は、ねずみ、牛、虎。
干支を順番にやってるのかい?
忠臣蔵の猪もやった。
人間の役は、一度しかもらっていない.今度は一ノ谷嫩軍記で、馬の役だ。それも後ろ足。
ご近所の空き地に小屋を建てて興行しますのでどうぞご贔屓に。
主人は元の奉公人のために団体を組み、楽屋にうなぎ弁当を差し入れて出向く。

名前を出した鯉昇師のものと、登場人物や設定が似ていた。悲哀を強調したりしない噺のムードすら。
おもしろ落語の鯉昇師から教わるとしたら意外な気がするが、どうなんだろう。

武助馬は一応プロの役者の芝居なのに、素人芝居の匂いが漂う。
馬の前足を務める兄弟子も、昼間から一杯やってるし。
フラフラで前脚務めて、うなぎ弁当3人前のせいで屁をこくし。
馬上の中村かん袋も、うなぎ弁当5人前平げてていつもより重いし。
後はもうドタバタ。
めちゃくちゃな芝居だが、客が喜んでるからいいじゃないか。芝居の客もだが、落語の客も。

ハイライトは後ろの壁(書き割り)が倒れて、関係ない婆さんの行水が見えるシーン。

携帯が何度か鳴ってた。同じ人だと思う。
最近、あまり気にしないようにはしている。だが私だって平気で鳴らすことを是としているわけではもちろんなくて。

トリは再び春風亭貫いちさん。
先ほどつまづいた同じ段差に、またつまづいてしまう。こういう人、好き。

先ほどの失敗をすっかり忘れて、同じところでつまづいてしまいました。
私で最後です。
貫いちさんは雪駄を、舞台に上がるステップで脱いでいる。丁寧だが、やまと師は高座の後ろまで雪駄で上がっていた。

残り15分ぐらいだったが、10分オーバーして一席ちゃんとやる。
マクラは無筆だった。
いいんだよ兄貴も読めねえんだから。
あと、大工の山田喜三郎。
無筆のマクラからつなげるとなると、手紙無筆? 珍しいのでは三人無筆なんてあるけども。

だが、天災だった。トリでも出せないこともない。
天災の八っつぁんは確かに無筆だが、無筆がテーマではないけども。
軽い設定で、れえん状りゃんこくれから始まらない。
大家(岩田の隠居)が、八っつぁんに手紙を持たせる場面から始まる。
八っつぁんがおっ母さんを蹴飛ばす乱暴者なのは、手紙で明らかになる。

天災も今ではそんなに掛かる噺でもない。当ブログでは3回だけ。
3年前に聴いた扇辰師の天災が非常によかった。面白いことに扇辰師、「おなじみの噺で申しわけないが」と一席後に断っていた。
掛からなくなっても演者の意識の上ではなおやたら出る噺なのであった。
珍し目になっても、こうして成り立ての二ツ目さんが覚えて掛けている。嬉しいことだ。

もっとも、まだ乱暴者の八っつぁんもハマってないし、心学の紅羅坊奈丸先生もまだまだ。
現在のキャリアでは仕方ない。
ただ、貫いちさんの低位で進める語り口は、多少の難は吸収してしまうから、いいではないか。
そして、登場人物を「それらしく描く」のがどんどん達者になっていくのだろう。

ひとつ難があるとすれば。
へっつい幽霊の熊さんの肝っ玉は、幽霊のほうをびびらすことで描ける。線の細い演者でも。
だが天災の八っつぁんの乱暴さは、心学の先生を通しては描けないのだ。先生びびってないもの。
だからやっぱりひと工夫必要。
心学の先生が「サア」と裂帛の気合いを入れる場面、貫いちさんはまだまだ。

最近、「八っつぁん熊さん」が共演する噺がいかに少ないか書いたところだが、天災がありました。
もっともこの噺の熊さんには、別に個性はない。

たっぷりで楽しいコットン亭でした。
こういう会はいいよなあと思う。寄席と、たまに行くメジャーどころの落語会の隙間を埋めてくれるのである。

やまと師はあるいはメジャーどころのほうに進むかもしれませんが。

(上)に戻る