2席めは新作落語。
演題は「棚上げ」か「棚卸し」じゃないかと思うのだが。
ご本人に直接訊けば教えてもらえるだろうが、訊いたからってどうってこともない。タイトル確立してないことも普通だし。
夫婦喧嘩で始まる。
夫も妻も、パートナーの独特のくしゃみの仕方や、無意識に出るシャレに不満がある。
だが、お互いセンスは似たようなもの。
お互い、自分のことを棚に上げて相手を非難する。
私はこの日ちょっと体調崩し、うち帰ってからくしゃみの連発だった。
家内に文句を言われた。やめなさいよ。やめられないよ死ねっていうのか。死になさいよ。
みたいないつもの会話。
私もかつて家内のくしゃみに文句を付けていたので、生理現象でも言い返せないのだった。
おお、この日聴いた落語がシンクロした。
花いち師は、実家の話はよくするが、奥さんの話はまったくしない。しないでって言われてるんじゃないだろうか。
ともかく、話題に直接は出ない、家庭の空気感が漂っていて面白い。
冒頭あるあるで面白いのだが、「自分のことを棚上げするための棚」をニトリに買いにいくくだりから、わけがわからなくなる。
わからない、は正解ではないな。
日曜聴いた「あたま山」の記事で触れたが、シュールな設定に現実との接点を見つけられず「腑に落ちない」のである。
そして「棚卸し」という言葉が頻出するのだけど、棚卸しという、もっぱらビジネスで使う用語と、噺の中での使い方がどうもマッチしなくて、やっぱり腑に落ちない。
「棚上げ」とか「棚卸し」は、意外と確立されたことばじゃないみたい。
まあ、花いち師の新作、楽しんだけども内容よく覚えていないということもよくある。二度目聴くと急に蘇ったりなんかして。
仲入り後のマクラは、正直について。
昇羊くんと昇市くんと会をやってます。読書好きの昇羊くんが本を紹介してくれる会です。
この会に書店(だったか、関係者)のお客さんが来てまして。ぼくの会を札幌で開いてくれました。
ぼくを紹介するときに「読書好きの花いちさんです」と言ってくださるんです。
でもぼく別に、読書そんなに好きでもないです。好きなのは昇羊くんで。
一席終わった後のトークでも、読書好きの花いちさんと振られます。
大人はこういうとき、場を白けさせないために嘘でも読書好きのフリをするんでしょう。でも耐えられなくなって、「そんなに読書好きでもないです」って話しちゃいました。
なんだか共感した。
私がいつも聴いてる土曜の大阪のラジオでは、桑原征平アナが、吉弥師と一緒に長いこと番組やってるのに、「落語聴かない」って平気で言っている。
米朝とのエピソードだって無限にあるのに、平気でそう言う。
それを聴いて嫌な気になるかというと、全然。
だから花いち師もいいと思うのです。
ここから井戸の茶碗へ。
くず屋の清兵衛さんは曲がったことが大嫌い。曲がり道を歩くときは涙にくれながら歩く。
こんな前振り、柳家っぽくて意外。柳家だけど。
あと、清兵衛さん茗荷谷に住んでるのだなと再認識。清正公さまは白金高輪で、遠いね。
井戸の茶碗は二度目で、昨年聴いたばかりだった。
当時も良かったが、さらにパワーアップ。
井戸の茶碗は、人情噺だというくくりからなかなか逃れられない噺である。
でも滑稽噺の要素もなかなか強い。花いち師は、人情を切り捨てて、真っすぐおもしろ噺として語ることにしたようで。
人情は、語らなくても噺の骨格から勝手に湧いてくるだろうということでは。実際そうなのだ。
といって、話をぶっ壊して悦に入るようなやり方ではない。
ちょっとズレた演者が、正攻法で噺を語ると、角度がついて楽しいのだ。
演者自身が、自分のズレの程度を自覚していなければならないわけで、そんなに簡単な手法でもないだろう。
千代田卜斎が仏像を手放すにあたり、背景は一切描かれない。
風邪で寝込んでしまって当座の生活費にやむなく、なんてのはない。
高木佐久左衛門も、窓下を通るくず屋たちにそれほどひどいことは言わない。もっとも、顔を改めておいてとっと通れは乱暴ではある。
とっておきのくだりが、茶店。
通常は、くず屋の仲間の一人が架空の仇討ちを語り出し、みんな身を乗り出して聴く。
花いち師の場合は、茶店の婆さんが話題の出どころ。
このあたり、力を入れる演者も多い。だが花いち師は婆さんに委ねて軽く進む。
前回、ついに高木さまに見つかる清兵衛さんが、変顔を向けるギャグがさし変わっていた。
清兵衛さん、高木さまに後頭部を向ける。高座でもって所作をしっかり出しているので面白い。
千代田さまは、50両に手を伸ばした右手を左手で止めている。激しい葛藤。
ここを清廉潔白な浪人に描くから人情噺になるのであり、すでにその道は放棄している。
まあ、この部分を「噺をぶっ壊して!」と怒る客もいないとは限らない。
そういう気持ちになったら、「人間の煩悩」というテーマとして捉えてみてはどうか。そんなたいそうなもんではなかろうが。
仏像から出た50両をめぐって行ったり来たりする清兵衛さん。
ここも前回と変わっていた。清兵衛さんが大家に泣きつく場面が省略され、大家仲裁の場面でもって清兵衛さんが泣いている。
なぜ泣くかというと、仕事に行けないから。
あとは、細川公は鷹揚、というか抜けたお殿さまに描かれる。
ご本人は井戸の茶碗の目利きなどまったくできず、たまたまいた鑑定家に向かって茶碗を放り投げている。
細かいギャグばかり挙げてしまったが、それより全体的にすっとぼけていて演者の持ち味がフルに出ている。
だから満足度が高いのだ。
新作の評価の方が先に来るであろう花いち師だが、古典もずっとやっていたので面白い。
いずれ寄席で古典の連日ネタ出しなんて日が来ることに期待します。

