間の悪さを楽しむ落語

日本の話芸でやっていた桂米二師の「火事場盗人」をきっかけに、人情噺について触れようかと思った。
狭い意味での人情噺に限定せず、落語の人情を広く取り上げようと。
と思ったら、もう6年前に続きものを書いてました。

落語の人情 その1

累計アクセスは全然ないが、割と気に入っているシリーズなのでよければぜひ。

さて、ここからちょっと発展して、「人情噺を埋めている要素」について書こうかと思った。
滑稽噺の「笑い」に替わって、人情噺を埋めている要素は何か。
もちろん「人情」だといえばそうなのだが、もっと直接的な要素。人情噺に笑いを入れすぎるのはよくないが、では入らない笑いの代わりになにが入っているかという。

そんなことを考えていて、人情噺に限らず、「笑い」と別の要素は多々あるなと思いついた。
落語だけではなく、「おはなし」全般に共通する。小説でも芝居でも、ドラマでも。
そんなものの一つ、「間の悪さ」について。

入船亭扇辰師の「小間物屋政談」を聴いて、これはまさに間の悪さを楽しむ噺だなと思ったのだ。
この噺好きなのだが、どうして好きなのか、自分でもよくわからないでいた。
旅先で人助けをしたのに相手が死んでしまい、助けたほうが死んだことになってしまう。
それどころか、留守を任せた女房が、亭主が死んだので再婚してしまう。
悲劇のかたまり。
取り違えられたのはちょっとおかしいけれど、それにしちゃ気の毒すぎるではないか。

だが小間物屋政談は、「間の悪さ」を楽しむ噺だと思うと、すんなり腑に落ちる。
死人と生きた人とが、ごく簡単に取り違えられるわけではない。多くの偶然が重なりあった結果なのだ。

この要素に気づくと、扇辰師の噺には「間の悪さ」が溢れているなと。
たとえば「徂徠豆腐」。
たまたま上総屋さん、寝込んでしまって荻生徂徠に豆腐が届けられない。ああ、取り返しのつかないことをと。そうこうするうちもらい火で店も全焼。
「さじ加減」も間が悪い。しばらく品川に行かないでいるうちに、芸者のおなみは気が狂ってしまう。

以上は人情噺であるが、滑稽噺にもそんなのが。
「雪とん」では、田舎の若旦那が願いかなってお嬢さんの寝間に忍んでいけることになった。なのに一瞬の隙に偶然が重なり、いい男の佐七がお嬢さんの元に招き入れられてしまう。
間の悪さがわかるだけに、雪の街を一晩中さまよう若旦那が可哀想で楽しい。佐七にとっては極めて間がいい。
按摩が主人公の「麻のれん」も間が悪い。目が見えないのに旦那の家の間取りは知り尽くしている杢市だが、健常者のちょっとした気遣いですべてが覆ってしまう。

並べてみると偶然ではなく、扇辰師、間の悪さを好んでいるのだと思うのだ。

扇辰師、「馬の田楽」はやらないだろうか。
これは最近、橘家圓太郎師から二度目を聴いた。
田舎ののどかな日常のはずだったのに、配達先は間違っているし、子供は悪さするし、さまざまな偶然が重なり、大事な馬がいなくなってしまう。
馬を必死に探す馬方の前に、なおもでたらめな人物が多数登場する。
間の悪さもさらに拡大していく。

花見の仇討も毎年のように聴くが、今年桂鷹治さんから聴き、大事な間の悪さに気づいた。
せっかくの趣向、六部役の六ちゃんが耳の遠いおじさんに捕まっちゃうのがすべての始まり。
それだけでなく、助太刀まで登場してしまう。

紙入れや、風呂敷も間が悪い。
まあ、亭主が自分の家に帰ってきてしまうのは当たり前ではあるが。

間の悪さゆえに死人が出てしまうのが、「立ち切れ線香(たちきり)」。
若旦那を蔵に押し込める番頭も罪作りだが、しかし仕方ない。

大作でも、御神酒徳利なども間が悪い。
自作自演の占いで、大坂に連れて行かれるのだから。
ただ、失踪してしまう「占い八百屋」でないバージョンは、神さまに助けられて無事江戸に帰ってくるから間が良すぎるぐらいいい。

干物箱は、本屋の善吉が勝手に墓穴を掘っている。
これは自業自得。
下ネタ落語で取り上げたばかりの「蛙茶番」も同様でしょうな。

ところで、間の悪さ、つまり災難を楽しむ噺もあるなと。
落語の客が楽しむまでは当たり前だが、登場人物も災難を楽しんでしまうのが「蔵前駕籠」。
女郎買いの決死隊。
ふんどし一丁で駕籠に乗り、予想通り浪人に止められる。
ある種大成功。

船徳は一般的には、船客にとって純然たる災難であろう。
だが、小遊三師の船徳を聴くと、少なくとも船に誘った客のほうは、めったにない災難を楽しんでいる。

間の悪さは落語だけの要素ではなく、ストーリーテリングの要素。
落語の創作において、間の悪さを徹底的に掘り下げていったものが、圓朝ものではないのかなと思っている。
ちょっとした間の悪さが拡大していくと、本物の悲劇になるのだった。

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