「お釜さま」まつり

検索にはよく掛かる当ブログ、世間の動きに合わせていきなり特定の記事が伸びることは珍しくはない。
もちろん、検索すればヒットする状態になっていること自体が重要なのである。

6月末から7月頭に掛け、ネタ切れで3日ほど更新を休んだ。
そのときに、特定の記事のアクセスが大きく増え、1日のアクセス総数は減らなかった。
原因がまるでわからず、首を捻っていた。

この2記事。
ともに古い古い記事である。6年前と9年前。
寄席芸人伝のほうなど、Yahoo!ブログ時代、それからまだGoogleの自動広告がなく、独自ドメインでもなかった時代と、二つの節目を乗り越えてきた。
移転するたびアクセスの積み重ねはゼロになるから。当ブログ、埋もれたままの記事もたくさんあるのだ。
この2記事は、何かのきっかけで地上に出てきたのだ。

前者は300近いアクセスを得て、後者も200を超える。
しかし、なんで急にブレイクしたのかがまるでわからない。
共通点は、「お釜さま」という滅んだ落語の演目にあるはずということしかわからないのだが、Xでお釜さまを検索しても、ブレイクするほどの内容は出てこない。

お釜さまは、人情噺「薮入り」の原型。
薮入りは、奉公から3年ぶりに帰ってきた坊やの物語。
大金を持って帰ったので、両親が心配する。盗みでもやらかしたんじゃないか。
坊やはねずみの懸賞でもらったのだと言う。
これもみんなチュウのおかげだ。

お釜さまが薮入りになった経緯を、史実をベースにしたフィクションで描いたのが、寄席芸人伝である。
さて、原型であるお釜さまにおいては、息子の持っていた大金のいわれが違うのだ。
奉公先の番頭さんにオカマを掘られていて、それでもらった小遣いだったのだ。
このエピソード自体、実際の事件をベースにしているのだという。

原型のほうはひどい噺である。
現代人の感覚として当然NGであっても、いにしえの人からしたらちょっとした艶笑譚。それもまた、想像力を使えば理解はできる。
しかしこれが薮入りに進化するのだから、世の中は面白い。

お釜さまは私は、「噺は自然に滅びることがある」例として捉えている。
同時代人の感覚に相容れなくなったら、もうダメ。
現代でお釜さまを演じるとすれば、史料目的以外にはあり得ない。
浅草で毎年やってる艶笑噺まつりでも、もはや掛からないと思うが。

だから、私の好きな廓噺だって、時代が認めなくなったら終わり。
価値を認められなくなったらおしまいだ。
現代はまだ、価値を認めない時代ではないので、楽しんで聴いている。それだけのことだ。

さて、当ブログにおいてほんの片隅に置かれた2記事だが、「落語 お釜さま」で検索するとヒットする背景はすでにあった。
だが、誰が検索するというのか?

数日前にやっとわかった。

フォロワー5万のインフルエンサーだ。
ちなみに、批判するブロガーのネタをパクってポストを作るごくらくらくごは8,000。

このポストに別にお釜さまのことは書かれていない。ねずみ駆除の報奨金について落語を出しただけである。
だが、「今は掛けられないが薮入りには小僧さんが先輩にXXされる場面があって」とリポストした人がいたのだ。
薮入り自体にはそんな場面はないけども。
ここからお釜さまの考察があちこちで始まり、検索で当ブログに行き着いたわけだ。謎は解けた。

だからと言って、お釜さまがことさらにフィーチャーされたわけでもなんでもないのだ。
ほんのちょっと触れられただけ。
ごく微量のそれが、当ブログに合計500のアクセスとなって流れ込んだのである。

何を思ったかというと。
ああ、落語の周辺領域なんて狭いもんだなあということ。
フォロワー5万の人から少量、たまたまこぼれたアネクドートが、狭い業界には大きな津波となって押し寄せるのだった。
だから落語になんてこだわらずにもっと広い世界をみよう、なんて話にはさすがに行かない。
もっと一般ウケする記事の方向性は考えてもいいかなとは思った。
と言って別に政治を語り出したりはしないですけど。

コメントする

失礼のないコメントでメールアドレスが本物なら承認しています。