仲入り休憩挟んで緞帳が上がると、メクリはまた遊雀師。
ああ、二人会ではあるが、ゲストは先ほどの一席でもうおしまいなんだなと、初めて理解する。
なにしろ開演から1時間半を超えているので、この後もう一席はない。
遊雀師のマクラは、昨日すでに書いたが千両みかん激賞のみ。
たい平師は前座の頃から輝けるスーパースターであり、今なお進化をやめない人ということなのだろう。
いっぽう遊雀師、若い頃はたい平師(ほかもろもろ)に対する嫉妬もあったんじゃないかと想像する。
それは珍しいことではないが、そこで諦めてしまう人もいる。
遊雀師は嫉妬や鬱屈、そしてそれを遠因に、最もひどい挫折も味わった。
しかし移籍した芸協では知らない演出を手掛ける人として重宝され、若手にも慕われ、自尊心は大いに回復した。
なおも噺に向き合い続けていたら、三太楼時代よりもはるか高い評価を得るようになった。
ひとりの芸人の半生が、語らずして語られている気がする。
仲間をひたすら褒める裏側には、いろいろどす黒いものを懸命に排泄してきた歴史もあるに違いない。
そんな人間味溢れる遊雀師がたまらなく好き。
今日は夏の噺の集大成だよと、野だいこの説明へ。
この、「野」がついてるだけでずいぶん安っぽくなるよねと。
鰻の幇間。うなたい。
昨年は小遊三師匠のすばらしいうなたいも聴いた。
だが遊雀師のものは、私が知るうなたいの最高峰である。
圧巻の一席だった。
本質的に鰻の幇間という噺、自分でも理由がわかりきってはいないが、好きなほうではない。
騙される構造は、落語の芯のまん真ん中。
楽しいストーリーだが、聴くのが二度目以降なら、もうその要素には頼れない。
むしろ、結末に向かってまっすぐ進んでいく予定調和の噺かもしれない。予定調和で終わらせないためには、何かが要る。
演者のみなさん懸命に何かを加えるのだが、それが必ずしも成功していると思えない。
この、必要不可欠な追加要素(成功)が遊雀師には見られた。
あのす枯れた旦那はどこかの番頭さんで、若旦那のためにみかんを探して歩いたに違いない、なんて、寄席でもおなじみの楽しい遊びもあったが、そんなものをもって最高傑作だと言いたいわけではない。
1席目の四段目と同様、普通にやっても師の落語は楽しい。
登場人物のセリフ回しがダイナミックであり、どこから声が出るかわからない。
いっぽう、特徴的なクスグリは控えめ。
家が考え込んでる、締め切ってるから暑すぎる、無理やり開けてみたら壁だった、ぐらい。
あとは普通。「お宅は…せんのところ」とか。
そして、旦那のキャラも極めて控えめ。
どんな人間なのかまるで描かれない。こういうあたりに、盛り上げたい部分を隠し持った、ひとと違う師の思いを知る。
2階で遊んでる家の子などいない。
この噺、どこから来てるのだろう。
小遊三師ではないし、そして権太楼師でもない。
うなぎと酒のまずさは一八の顔でしっかり描写する。
ふわっと溶けない、固い固いうなぎ。
旦那が先に帰ったと聞き、2階で羽織を脱ぐ。
羽織を脱ぐタイミングが珍しい噺だ。
ここまでわりと普通に進んできて、騙されたことに気づいてからがオリジナリティ発揮。
騙されてからが真骨頂。
自分で勘定を払わねばならなくなった時点で、幇間の一八、うろが来る。
そこで仲居に当たり散らすわけだが、現代基準からはカスハラのきらいがある。
遊雀師の仲居への苦情は、うろの来た現代人としてどんぴしゃであった。これが、うなたいの最高峰だと思う理由。
細かいクスグリで笑わせるのではなく、一八の心境を描き切る。
苦情を浴びせられる仲居も、最後までどこ吹く風。
一八のショックは三段階。
- 騙されたことに気づく時点
- おみやを5人前持って帰られ、10円近い請求になると知る時点
- 下駄持ってかれた
遊雀師は、2を強調しない。一八のショックの大部分は1である。
一八が仲居に一通り苦情を述べた後で2が出る。もう言い尽くしてしまった。
縫い付けた10円札なんてのは出てこず、カラッとしている。
で、この苦情のスタイルもいろいろあるところで。
あまりにも頭にきたので、とにかく言いまくる型もある。
遊雀師は、騙された状況にうろたえつつ、これはもう、ひどい目にあった以上言っておかねば、という感じ。
ムリにひねり出したものでなく、序盤に伏線があるものばかり。
まずは、暑い。このうちは暑すぎる。
おちょこが天ぷら屋のもらいものと、除隊の記念品。
うなぎのまずさは、客もすでにわかってるから手短。
酒は仲居が、「灘じゃありません」と言ってる。この言い方にカチンとくる一八。まあそりゃそうだ。
甘口辛口はあるが、酸っぱい酒を作ってるのは灘じゃなくて野田。醤油のほかにもあるんだねと。
こうこが立ってられないあたりになると、やや因縁っぽくなる。なのでここで文句はおしまい。
言い尽くしてすっきりしたと言う一八だが、本当は全然すっきりしてない。
文句を言う自分自身に不快感を持ってしまいかねないのが現代人。
この堂々巡り自体、一つの災難であろう。
災難を描いた落語は、災難が楽しくないといけない。
ただの被害で終わってしまうと、あとでモヤモヤするわけである。
遊雀師のものは、楽しくないうなたいを反面教師にして作り上げた気がする。
最後にたい平師が登場するかと思ったが、それはなかった。
閉まる緞帳の向こうで遊雀師、なおも客を笑わせるのであった。
楽しい会でした。
大ホールの落語会にも、寄席にもない楽しみで溢れている。
夜席なのだけ難点だが、遊雀好み、また来たいものです。
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