たまに書いてる、落語のサゲの話。
今回は、「サゲを先に言う客」というアナーキーな存在から、思いついたのであった。
サゲを言う客、私はもう気にしないことにしているが、もちろん決していい行為のはずはない。
しかし、マナー違反を論じる前にそもそもだ。なぜサゲを言いたくなるのであろうか。
考えていたらわかった。
<高座から、『次にサゲが来ますよ』というサインが出るから>
そうなのだ。サゲを喋ってしまうという、口と脳髄が直結されている動物レベルの客であっても、サゲのサインは聞き逃していないのである。
サゲというもの、噺によって固定されているわけではないし、サゲの入るタイミングも何種類もある。
噺家が強迫観念にかられているのか、サゲを自分で考えないとと思ってる死神みたいな噺もある。
新作落語ではもちろん、初めて聴くときはサゲはわからない。
だから「この噺はこのサゲ」といえないことも多いのは前提。
だが実際に高座に向かい合っていると、意外なぐらいサゲに入るタイミングがピンポイントでわかるものだ。
逆に、「あれサゲちゃった!」なんてことはそんなにはない。たまに見るけど、ごく少ない。
今日はその、サゲの「フリ」について。
サゲにはフリがある。
ただ、全部のサゲにフリがあるわけではない。
- 一部のサゲにフリがある(客のサゲスイッチも入る)
- フリのないサゲもある(客のサゲスイッチは入らない。サゲを言いたくなる種類のサゲではない)
この2種類があるらしい。
別に、サゲを先に言う客との遭遇を無数に経験していて、それをフィードバックしたわけではない。そんな経験したくないし。
ただ、フリのあるなしを分けるルールは、統一的に理解ができたのだ。
先日書いたこの記事である。こういう内容。
落語のサゲは、発話者による行為の態様で分類すると次の3種類しかない。
作為、嘆息、状況説明である。
この発見と、フリのあるなしが結びついた。
- 作為の言動のサゲだけ、それを引き出すフリがある
- 嘆息、状況説明のサゲの場合、フリはない(不要)
こういう理解ができた。
「嘆息」にも、嘆息のセリフを導くフリに見えるものがないわけではない(後述)。
ただサゲを導く特殊なフリは原則、「作為」を導くものだけなのだ。
作為を導くフリは、不自然な会話なのである。フリだけ抜き出してみた。
- 牛ほめ(お札なんか貼ってどうするんだ)
- 子ほめ(一つで若かったらいったいいくつだ)
- 金明竹(買って飛び込んだのか)
- 転失気(恥ずかしいとは思わんのか)
- つる(いったいなんて言って飛んできたんだ)
- 四段目(蔵の内でか ※自己のフリ)
- 七段目(てっぺんから落ちたか)
- 小間物政談(大店のあるじになったのだ ※自己のフリ)
- 蜘蛛駕籠(足が8本出てて、変な駕籠だね)
- 鮑のし(杖をついたのしの字はなんだ)
- たがや(上がった上がった)
- 遊山船(さても汚い、錨の模様)
- 夏の医者(もういっぺん飲みこんでくれ)
よく考えたら、サゲの前のフリって不自然なセリフが多くないですか?
七段目の「てっぺんから落ちたか」ってなんだそりゃ。そんな会話あるか?
金明竹も、もうかみさんの釈明がめちゃくちゃなので気にしないが、旦那の「買って飛び込んだか」も冷静に考えたら意味不明。
不自然なフリの直後にサゲが来て、そっちが全部持っていくので、落語とはこんなものだろうと思われている。
しかし、作為を持ったサゲをきれいに振るためには、不自然なフリが必要。
新作落語も振り返ってみたが。
三遊亭白鳥「天使がバスでおりた寄席」だとこう。
「竜さーん、飛んで帰るのかい?」
「いーや、俺はバスで帰るんだ」
竜さん(モデルは川柳川柳)が東京ドームの天井を破って飛んでいくという結末からはぴったりではあるが、よく考えたらずいぶんなフリではないか。
もうちょっとサンプル出してみたいが、新作のサゲなどすぐには思い出せない。
さて、うまいこと整理がついたのだが、もう少し厳密に追求してみる。
「作為」のサゲであっても、特に無茶なフリでない、普通のセリフのものもあった。
- 孝行糖(どこが痛いんだい)
- 味噌豆(珍念、なにしにきた)
- 高砂や(下げては困ります)
これらはサゲの作為が強すぎて、フリを必要としないらしい。形式的に会話を振られれば対応できるようだ。
この場合、フリが普通なため、「サゲを言いたくなる」ことはないだろう。
それから、「嘆息」(ひとりごと)を導く、強引なフリというものはないかなとも考えてみた。
基本はなかった。
嘆息とは会話を求めず、自分で勝手に、落語の客に対してボケる行為だからだ。
ただしひとつだけ、フリっぽいもののある演目がある。
上方落語の「胴乱の幸助」。
「もうとっくに二人とも心中しましたがな」
「しもた。汽車でくればよかった」
サゲが「嘆息」のものでは、これだけがまともな会話ではない。
浄瑠璃のストーリーを元に、嫁いびりをやめさせようと京都まで来るおやっさんに対し、まともな世界の会話ではこうはならない。
ぶしつけな客人に対し、「それはお半長というお話の中のことでして」と訂正するのが本筋。
しっかり訂正せずに「心中した」というので、おやっさんは変な理解をするわけだ。
この噺だけ、「サゲのために変な会話でフリを入れる」という、「作為」の共通ルールで動いているようだ。
ただ、作為はないのでちょっと違う。
でもまあ、座りが悪い噺はこれぐらい。
これも、強引に「フリはない」とまとめてもよかったのだが、あんまりきれいな分類でなくてもいいだろう。
さて「作為」のサゲが出そうなときは、たぶんみんな同時に内心でサゲを唱えていると思います。
言ってしまう客だけではないはず。
まあ、本当に言ってしまうのはダメですが。