弁橋さん、吉原の模様を描写するのに隠居に「昨日のべらぼうで見たからね」。
「いったい今はいつなんですか」というメタ的なツッコミが自然である。
「とは」は千早の本名。
トリはお目当ての桂鷹治さん。
ワンコイン寄席は500円でして。今どきないですよね。
かつてワンコインでは新宿末広亭の深夜寄席というものがありまして。コロナの前から休止してたんですが、1,000円で復活しました。
そうしたらお客さんが半分になりまして。半分になりましたが実入りは変わりません。
その後北村会長とも相談して、値上げしてもいいだろうということで1,500円になりました。
1,500円になったら、お客さんが500円の頃の3分の1になりました。実入りは変わりません。
まあ我々はどんなに稽古するよりも、生き物の前でやるほうが勉強になります。
ここでは落語以外に講談・浪曲も出ますね。
講談や浪曲の登場人物は、出世した人です。
落語の登場人物は、出世していない人です。馬鹿ばっかりです。
そんな噺を覚えて掛ける我々も馬鹿です。それを聴いてるお客さんも…ようこそいらっしゃいました。
いつものフリのあと、「ほんのシャレですからね」とフォローを入れるのが丁寧。
4月の後半は、もう青菜の季節か。
一度聴いて激賞した。
前回なかったのではないかという、とっておきのクスグリがひとつあっていたく感心したのだが、そのクスグリ忘れちゃった。
なんだそりゃ。
まあいい。いずれ思い出すかもしれない。思い出さなくったって噺の価値が落ちるわけでもなく。
よく聴いてる鷹治さんだが、今さらながら技法をひとつ発見した。
積極的に棒読みを取り入れているということ。
棒読みは立派な落語の技法。
アクセントを付けないことにより、他の登場人物が引き立ったり、リズムが安定してちょっとしたことで爆発したり、いいこといっぱい。
屋敷の主人はほぼ棒読み。
青菜の場合、植木屋もそんなにアクセントは付けないので、「完全棒読み」と「やや棒読み」の会話だ。
噺のトーンをこうした最下層に置いてしまうと、棒読みの程度で持ってちゃんと対比になるのだった。
「桂鷹治 棒読み」で検索したら、自分のブログの「ちりとてちん」が引っ掛かった。
ちりとてちんの場合、隠居が棒読み。これにより、ヨイショの男が引き立つのである。
だが、青菜ではそこまで差を付けない。
ちなみに、マクラも棒読みに近いなと。いつもの手法だが、本編との関連で、改めてそう思った。
いつものマクラも、棒読みでやると予定調和が薄れるのだった。
そして、フィクション性が増す。
高座の上の噺家が、生々しくなくなる。だから「我々馬鹿を見ているお客さんも…」みたいなジョークをマジで聴かなくていい。
芸協にも、等身大の演者が急に生々しく現れ、非常に暴力的に見える人が数人いる。そういう危険はない。
これは明らかに、師匠・文治とは異なる方法論だ。
登場人物が生きないと悩んでいる若手は、棒読みにチャレンジしてほしいと私はいつも思っている。
植木屋もまあまあ棒読みなので、「ご精が出ますな」と急に声を掛けられても、それほど慌てている様子にも見えない。
ちなみに、急に話しかけられてアセったという、植木屋のひとりごとは入らない。
青菜という基本的には大好きな噺、しっかりアクセントを付けてやると、いろいろ疑問も持ってしまう。
そもそもなんで植木屋は旦那の真似がしたいの? という。
しかし棒読み手法だと、ごく自然にこの世界に入れるのだった。
序盤は、旦那が完全棒読み、植木屋がやや棒読み。
家に帰ってからのかみさんとのやり取りは、普通にアクセントを付けて喋る。つまり本音の世界。
そして楽しいごっこ遊びに入ってからは、植木屋が完全棒読み、湯に誘いにくる熊さんは普通の喋り。
喋る内容よりも、喋り方でもってスムーズに旦那の真似になるのである。
だから青菜は嫌えだと言われたとき、旦那の真似からちょっと離れただけで自然な会話になるのだった。
そもそもこういう噺ではあるけども、鷹治さんのものが最も自然ではないだろうか。
熊さんは、イワシの焼き具合を褒めている。あのかみさんはイワシを焼く名人だ。
こういうさりげないシーンが好き。
今日も楽しいワンコイン。