トリの扇辰師、袖から登場して高座の後ろを一瞥し、入船亭扇辰と映し出されているのを確認する。
扇子で指差したりして。
「これ、ずっと出てるんだね。19.2秒ぐらいで消えればいいのにね」
そのうち消えますけどね…演者は後ろ向かないからいつ消えるのかわからないのだけど。
19.2秒って何だろうと思ったが、例の偽造卒業証書ですな。
信楽さんの噺を袖で聴いてました。私長年の腰痛持ちなんで、許せませんですな。
聴いてるだけなんで、どんな噺かさっぱりわからなかったよ。観てると違うのかもしれません。
でも、お客さまは笑ってるんだね。なんだかわからないけど大したもんだね。
三連休ですね。お客さまはお休みですけども、こっちは忙しいんだよ。大体会が入るからね。
今日はね、甥っ子のね、芸の上での甥、つまり兄弟子の弟子にあたるんだけど。
私の兄弟子の扇遊さんの弟子の、扇白というのがね、真打になるんで今日池之端の東天紅でパーティがあってね。午前中行ってきたんだよ。
本当は面倒なんだよ。祝儀たっぷり取られるしさ。行きたくないけどそうもいかないね。
大締めの音頭頼まれたのさ。おかしな話でね。私は6番弟子だよ。7人いるうちのね。ブービー賞なんだけど。
上にこれだけいるのに、なんで私に頼むのかね。
でも今日は、渋谷で仕事だからね、断って。
そうしたら、中締めの音頭頼まれたよ。
中締めと言っても、お客さまにはおわかりでないでしょうなあ。いいシステムでね、ほかの業界でも取り入れればいいんだけどね。
中締めというのはですなあ、みんな仕事があるんで、途中で抜けていいわけですな。なので一回締めて、あとは各自仕事行ってくださいという仕組みなんだよ。助かるよ。
せっかくの東天紅だからチャーハンぐらい食べたかったけどね。中締めで引き上げてきたから食べられないよ。
長嶋茂雄さんは英雄でしたなあ。昔の子供は銭湯行っても、みんな3番の木札取ってたよ。
後楽園で引退セレモニーやってね。あんなの前代未聞だと思うよ。
3番は永久欠番になってね。
落語にも永久欠番みたいな名前があるね。
色々古い名前も復活してるけど、一つ復活しない名前があるんだよ。三遊亭圓朝っていうの。
これだけは復活しないね。
本当はね、圓朝の弟子で圓右っていう人が襲名したので二代目なんだけど、病気で亡くなってね。だから圓朝の名で高座に上がった人はいないんだ。
三遊亭白鳥が圓朝継ぐって言ったら、全力で阻止するけどね。
でもあの人、直系なんだよね。さかのぼってくと圓朝につながるの。
圓朝の弟子に圓丸って人がいて、この人は目が見えなかったんだね。
この圓丸がある時、「師匠、私こんな許せないことがありまして」って圓朝に語った話を元に、すぐ作った噺があって、それを今日やります。
三遊亭圓朝作、心眼です。
心眼か。お持ちだとは知らなかった。
非常に好きな噺だが聴いたサンプルは少ない。二度遭遇した喬太郎師、志ん松だった志ん橋師、あとはテレビで出た正蔵、文菊。
そして昔の映像である、黒門町の文楽。
シブラク、初めて来た時も扇辰師がトリで、ネタは藁人形。
陰気な噺が好きな人だ。もっとも語り口はちっとも陰気ではない。
こんな一席。
- 全体的にシンプル
- 弟のところでひどい目にあった描写も手厚くはしない
- 女房、お竹は客にとって絶対いい女
- 満願の日までお参りの描写はない
- まだ目の明いていない梅喜が、薬師さまであたりを注意深く触りながらお参りするリアル
- 薬師さまへの悪態のあと、上総屋さんに肩を叩かれて、目が明いたことに気づく
- 杖は捨てない。神棚に上げようと持って帰る
- 浅草仲見世で、目をつぶり、杖をついてみる。空気を味わい、ああ、仲見世だ
- 上総屋さんが消えたのは、主人公梅喜が鏡を見て「旦那はまずい顔だ」と言ったので怒ったらしい
- 小春姐さんもいい女だが、客にとってはお竹のほうがよりいい女
- お竹に首を絞められる描写はあるが、絞める描写はない
喬太郎師が、上総屋の旦那のみならず小春姐さんもフッと消してしまうのは、「実は夢だった」のとっかかりを仕込んでおくためと思う。だが扇辰師は理由をつけていた。
ちなみに姿見に映る自分を見てポーズつける。貴重な笑いのシーン。
満願の日までお参りする描写がないのは、むしろ夢を強調してるということではと思ったが。
盲人のリアルな仕草は、「麻のれん」でも見られるところ。
扇辰師、絶対に目をつぶったままで日常生活してみた経験があると思う。
師にとって盲人の世界は、日常の感覚と切り離された、宝島なのだ。
満願の日に目が明いた梅喜だが、単に自力で目を開けてみなかったから明かなかったのではないかな。
扇辰師の女の描写は、もうたまらないですな。
ここに噺のツボがあるのは扇辰師ならではだ。
人無化十のお竹だが、師が語ると心底ゾクゾクする。お竹が醜女だというのは、夢の中の架空設定に違いない。
梅喜が糟糠の妻を、直接見てもいないのに捨てることにしたのは、詳しくは理由が描かれない。
喬太郎師は怒り(騙された)を強調していた。
扇辰師は、理由を深掘りしないことにしたみたい。
いずれにしても、人としては極めて醜い感情である。客にそのモヤモヤが届けばいいのだろう。
噺としてはモヤモヤだが、このおかげで落語の客としてはこの上なくスッキリしたのでした。
扇辰師、演目被る印象あるけども実は非常にネタ数多い人だ。
そして、人間の感情を扱った噺は絶品。