闘う古典落語
最近続けて、時代と闘っているような古典落語の演目を聴いた気がする。
圓太郎師の「化け物使い」(パワハラ)であるとか、百栄師の「引越しの夢」(セクハラ)とか。
猿後家(容姿差別)も聴いた。
「闘う」は客とではない。古い差別要素や暴力要素を入れ込んだとしても、いかに客を離脱させないか、そのために演者は闘っている。
「昔のままやって、わかる人だけわかればいい。わからない人は仕方ない」は論外だと思っている。
落語は調和の芸だ。わからない人、内容を拒絶する人が客席である程度の割合になったとする。それは、客席に不穏な空気となって漂うわけだ。
もちろん、演者もその空気を感じる。
そして結局は、「古典落語なんて昔のままやればいいんだ!」という人の感性をも壊してしまう。
「現代の価値観と闘う見事な一席だった。しかし、なんだか客席に引いた空気があった。わからない客だ」
などと演者をフォローしてみたところで、この高座は失敗である。
歌舞伎なんかもう少し敷居が高いので、「子殺し」とかいにしえのすごいテーマでも成り立つ。落語はそこまで強くない。
だから内容を時代に合わせるというのは、主義主張の問題ではない。実用主義として、当然そう当たらねばならない。
持参金とウツボ骨抜き
最近聴いたつもりでいたが、調べたらもう4年前だった。笑福亭希光さんの「持参金」。
不細工で腹ボテの女中を借金のカタにもらうという人権無視の設定であるにも関わらず、素晴らしい一席だった。
希光さん、「かみさんなんてもらったら一緒。それに気立てがいいのが一番」というメッセージを、それもさりげなく入れ、噺の楽しさをすべて回収してしまった。
時代に合わせるには「抜く」「隠す」だけでなく「新たなメッセージを入れる」という手段もある。
いずれにせよ、そのままでいいなんてことはない。
もっぱら高知で食べられるウツボという魚は、実に旨い。先日初めてタタキと唐揚げ食べて感動した。
しかし旨い旨いウツボは、骨抜きしないと食べられない。その面倒さは、ハモの骨切りの比ではない。
古典落語=ウツボ説。
持参金は、ウツボのごとく旨いのである。ただ、客に提供するためには細かい骨を抜く技術が求められる。
東西における与太郎の受容と、古典落語の現代の受容
さて、「古典落語を時代に合わせる」ことについて書いていたら、わかりやすい例が思い浮かんだ。
与太郎である。
タイトル回収が遅くてすみません。
以前こんなのを書いた。
上方落語には与太郎はいない。「喜六」という偉大なアホがいるが、これは相互に代替できるものではない。
与太郎は天然だが、喜六はもう少しアホとしての知恵がある。
上方落語好きも、東京落語の与太郎は仕方ないとして、上方落語に与太郎が出てくると生理的な抵抗が先に立つかもしれない。
イッチョカミでヘンコの桂南光師(すみませんね。落語は好きです)が、上方落語協会会長だった露の五郎兵衛について、「あの人は喜六を与太郎のように描くから許せへん」と語っていたのを思い出した。
五郎兵衛師は五郎時代に東京で寄席に出ていた人で、与太郎に魅力を感じていたものと推察される。
南光師としては、与太郎が上方落語を汚染するような怒りを覚えたのかもしれない。
与太郎に魅力があっても、上方落語の客側にはその受容の蓄積がない。
与太郎を導入しようとするなら、受容の蓄積も必要。器のないところに料理は盛れない。
そして、受容の幅は東西の違いだけではない。時代によって、落語をどこまで受容できるかは異なる。
現代の客は、古典落語に漂うハラスメントをスルーできない。感性は正直だ。
与太郎の大好きな私だが、与太郎が落語において無害だと思っているわけでもない。
知的障害の子供を持つ親が、与太郎を見て不快に思ったとして、それについては仕方のないこと。
どんな人に対しても無害な存在はいない。ただ、与太郎は受容の蓄積があるから無害に見えている。
いずれにしても与太郎、存在が大きすぎて今さら上方に導入はできそうにない。与太郎に魅力を感じている上方落語家もいると思うのだけども。
ハラスメントを受容できない現代
東西の違いは、過去と現在の違いとパラレルである。
セクハラ要素、パワハラ要素、暴力要素、その他あらゆる差別要素、現代人の一定の層が引く要素は、軽々しく残すわけにはいかないのである。
圓太郎師の「化け物使い」を聴いた際、師がいかにその骨を外して食べやすくしていたか目の当たりにした。
その工夫はもっと評価されるべきだと思うのだ。
古典落語を時代に合わせる流れは不可逆的。客に食べてもらわないと意味がない。
古典芸能の前にサービス業だからだ。
不可逆の流れは、決して元には戻らない。魚に、わざわざ抜いた骨を戻しに行く人はいない。
古い設定を安易に放置しておいても、現代の客にはただの骨でしかないのだ。
「古典落語は強いのだから今でも伝わる」「現代の要素をぶつけて聴いてしまう客のほうが悪い」「昔の人間が描けていて貴重なんだから、多少の引っかかりは我慢すべき」
ぜんぶ間違っているか、ズレている。
人間の感性というものを、軽々しくとらえすぎなのだ。
現代の客、皆が皆、噺のハラスメント要素が膨れ上がってくるのに、まっすぐ憤っているわけではない。
そういうことではないのだ。小さなくすぶりがだんだん拡大してきて、どうしようもなくなったときにもう楽しさに浸れない、そういうことなのだ。
なにも「どんどん作り変えましょう」というのではない。
客のくすぶりを拡大させないため、いかに骨を取るかが技術なのだ。
骨を取っている事実は、気づかせていい。
そして現代社会において、この取り組みはなかなかうまくいっていると思う。一流の人は考えなしに高座に立たないからだ。
こういう取り組みを、「妥協」と私は考えたくない。
これこそ真に、噺を未来に残すということだと信じている。