古典落語・定番クスグリの好き嫌い(その4「堀の内編」)

たまに書いてる定番クスグリの好き嫌いシリーズ。
その1はこちら。

古典落語・定番クスグリの好き嫌い

今回は、特定の演目を見てみます。
クスグリの豊富な「堀の内」。

堀の内は「粗忽長屋」「粗忽の釘」「粗忽の使者」「松曳き」と同じ粗忽シリーズである。
よく掛かるし前座噺っぽいところがあるが、その実前座はほとんどやらない。現に前座がやった堀の内は、過去2回しか遭遇していない。
二ツ目さんがよくやるイメージ。

ちなみに「堀之内」とも書くが、「堀の内」の表記のほうが一般的だろう。
ただし噺の舞台であるお祖師さま(妙法寺)で毎月23日にやってる落語会の名は、「堀之内寄席」。
芸術協会の二ツ目3人が出る、ワンコインの会である。最近行ってないな。
お囃子さんも呼んでる贅沢な落語会。
以前から一度、堀の内の八っつぁん(通常、名前は出ない)にならって神田から歩いて行ってみたいと思っている。
神田も広いが、どうせなら神田連雀亭、あるいは神保町のらくごカフェからスタートしてみたい。
靖国通りから、新中野駅の上で「鍋屋横丁」を左に折れる。鍋屋横丁は噺の中に出てきますね。

目的地への方向を誤り、一度浅草に行ってしまうのが多い。
ただ雲助一門では両国へ行く。現在の向こう両国ではなく、両国橋の西詰、現在の東日本橋付近だと思う。
両国のほうが、方向が真逆でそれっぽい気はする。江戸時代の火除け地で盛り場でもあり。
金原亭全般でこうなのかまではわからない。

さて堀の内のクスグリについて。
楽しい、強烈なクスグリに満ちている噺。
それはもはや粗忽ではなく、「認知の狂い」であるという。

  • 足の長さが変わってしまったと帰宅するが、下駄と草履を履いていた
  • 朝起きて、かみさんが誰かわからない
  • 箪笥を開けて顔を洗おうとする
  • ザルに水を汲むので汲めない
  • 猫で顔を拭く
  • 「お祖師さま」というワードが覚えられない
  • マクラをかみさんの腰巻で包んで、これを背負って出かける
  • 道に落ちてる帯を拾おうとしたら線路だった
  • 賑やかなところに着いたら浅草
  • 戻ったら家で、どこかで見たことのあるかみさんがいる
  • 自分の行先がわからないので、見知らぬ人に聞く
  • まっすぐ行って鍋屋横丁を曲がると着くんですがどうやったら行けますかと、見知らぬ人に聞く
  • ようやく着いたが、財布を投げ込んでしまう。神仏に先払いだと頼む
  • 弁当を使おうとして正体発覚
  • 帰ってきて隣のかみさんに怒鳴り込む

この後、さらに湯屋の場面があるが、堀の内に行ってくるだけで十分に大騒ぎだ。
こうして見ると、なかなかスケールのでかい噺であるな。
粗忽の大部分が、認知の狂いによるものである。あとは、一部「粗忽の使者」のようなもの忘れ。
そして、お題目である南無妙法蓮華経を唱えながら行くので、リズムのいい噺。

一番好きなクスグリは線路のくだり。帯と線路って似てるかね。
ただ、このくだりが入っていないものも多い。さすがにボケがひどすぎるということかな。
あとは、線路があると時代が明治に限定されてしまう。江戸時代でも全然成り立つ噺なので、あえて入れないのかも。

下駄と草履片っぽずつみたいなのは他の噺にもある。だが、堀の内はそれを除くほとんどのクスグリが独自である。
他の噺と共通しているクスグリが少ないというのは、よく考えたらすごいことだ。
そして、他にも珍しい特徴があることに気づいた。
数ある噺の中でも、堀の内だけは、クスグリのインフレ化から割と自由である。
デビュー間もない前座さんが、教わったクスグリを全部入れて前座噺(道灌など)を一生懸命やっていたりする。だいたい笑えないし、くたびれてくる。
ちなみに私はこれに「スタンプカード芸」という名前を与えている。
しかし堀の内のボケ方はおおむねスケールがでかいので、意外と全部入れてもくたびれることはないかもしれない。
ただ、そうはいっても、限度はあるだろうが。上記の程度が無難かな。

他にも入れようと思うと、まだまだ入る。
同じ人に二度道聞いたり、堀の内に着いてタバコ屋でお詣りしたり。

ちなみにこの疑問はよく書いてるのだが、一度うちに戻ってきた際、どうしてかみさんは弁当を渡さないのだろうといつも思っている。
八っつぁんが出た直後に気づくだろうと思うのだ。しっかりしてるかみさんなんだから。
たまに、道を間違えない堀の内もある。この構造に気づいてしまったからなのかなと思っている。
単に時間の関係で、端折ったのかもしれないけど。
ちなみに時間の短いときは、帰ってきて家を間違ったあたりでサゲたりもする。

嫌いなクスグリはそんなにはないのだが、「かみさんがしっかりしている」前提で聴いたときにちょっと違和感あるものはある。
この後、湯に行く際に八っつぁんがかみさんを間違えておぶうくだりも面白いのだが、なんでかみさんは黙っておぶわれているのだろう?
先の弁当問題もそうなのだが。

堀の内の大部分は、帰宅後に息子の金坊連れて湯に出かける。
この時点まで、息子の存在に触れられていないことも多い。屋上屋を架す感もあるが、でもだいたい湯屋がついている。
八っつぁんは空腹のはずなのに、それにはあまり触れられない。
湯屋に出向くシーンは、金坊から普段の八っつぁん(湯に逆さに入れる)が語られるので、噺が重層的になる。
間違えて床屋で服を脱ぐというシーンがある。
ただ、たまたまでなく毎度やってるんだという解釈にしてるものを結構見かける。お祖師さまに行くのは非日常だが、いつもの湯屋の場面になると、どうしてもそうなってしまうのだろう。
ここ抜いてる人は、さすがにもういいやと思うのだろう。

湯屋に行ってもよその着替え終わった子の服を脱がしたり、人のケツをかいたり認知の狂い放題。
金坊と間違って、もんもんの入ったよその親方の背中を洗おうとしたり。
そしてしまいが、湯屋の羽目板洗う場面。鏡でやってるのもあるが、羽目板のほうが本来なんでしょうか。
ふんわりした着地が多い落語のサゲの中では、このぶっ飛び振り、なかなか異彩を放っている。

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