最近は、テレビラジオの落語をめっきり聴かなくなってきて。radikoプレミアムも抜けたままだし。
「やっぱり落語は現場で聴かないとね。放送なんてのは、ありゃニセモンだ」
なんてことは、これっぽっちも思ってませんがね。
NHKラジオだけは、たまに「らじるらじる」で聴き返している。
真打ち競演では、NHK新人落語大賞の予選落ちの高座を集めて流していた。
これも取り上げるかもしれないが、今日はその前に「蔵出し名人会」が気になったので。
古今亭志ん生「ぼんぼん唄」である。志ん生67歳ということなので、倒れる前の志ん生。
人情噺のぼんぼん唄は、当時も志ん生だけがやってた噺だと説明があった。今は三遊亭萬橘師などがやっているそうで。
迷子の娘を育てるが、思わぬことでどこに住んでいたかが判明し、返しに行く噺。
私はブログ始める前にこの噺を一度だけ現場で聴いたことがある。
それが、現在休養中の立川談四楼師の高座で。あの頃は立川流の広小路寄席などへも行っていたのだ。
いたく感動したものだが、それからしばらくして談四楼師はアチラ側でもてはやされる人になってしまった。
ま、そんなことはいい。
ぼんぼん唄は、「寄席芸人伝」のネタにもなっている。
この古い記事を読んだら、なんと「志ん生のぼんぼん唄をYou Tubeで聴いた」と書いてあった。
なんだ、以前聴いたことがあったのだ。
You Tubeにあったのを今回聴き返したら、なんと今回のラジオと同じ音源だった。
つまり、以前聴いたものが10年後の今、まるで違って聴こえてきたということ。
今回このNHK蔵出しのぼんぼん唄を取り上げようと思ったのは、感動したとか、そういう理由ではないのだった。
「なんだこりゃ」と思ったので、そのなんだこりゃを今の私の感性でもってそのまま書こうと思って。
一番最初に断っておくと、「志ん生は本当は下手だ」などではない。
そして志ん生の高座に不慣れとか、そんなつもりが私にないことも断っておく。ずいぶん前に集中して聴いたこともあり。
だが、その頃から私の感性もずいぶん変わってしまったらしい。
マクラはどこへ行く?
ぼんぼん唄を聴こうというのに、マクラが変。
「志ん生だからだ」と解してそれは構わない。とにかく、昔の落語としても変。
なにしろ、何の噺をするのかわからない。
ぼんぼん唄は、子供の噺。子供のマクラを振るのが常識でしょう? 今も昔も。
マクラのしょっぱなは、「差し合いがないのが大事」という。
現代語としては「差しさわり」。
お客さんが怒らない噺がいいと。泥棒なんかいい。「俺のこと悪くいいやがって」と怒る泥棒は客席にはいないからだ。
と振って、「足の速い泥棒」。今でもたまに掛かるマクラ。
え、なんで泥棒? 放送だからまだいいけど、こんなの寄席でやったら、この後泥棒噺出せなくなっちゃう。
で、泥棒の次に今度は、耳の遠い人の小噺。
耳の遠い主人に番頭が、顔では笑って口ではボロカス言う。これは、円楽党だけでやってる「八九升」という前座噺に出てくるのと同じ。
続いて、しわいや。しわいやはなんでももらいたがるから、トゲが刺さっても抜かない。
どうやら、わかってきたが、いわゆる「三ぼう」を順に振ってるらしい。何の説明もないけれど。
すなわち、泥棒、つんぼう、けちんぼうの三ぼうだ。
しかし、寄席だったら八九升はともかく、ケチの噺もできなくなっちゃう。だからやはり変。
マクラはさらに変わる。ただししわいやとは関連していて、「欲張り」である。
「金が欲しい」という、今でもやる小噺
さむらいが欲張りに言う。金をやるかわりにお前の命をもらうがどうだ。
死んじゃったらなんにもならないんで。相談ですが、半分もらって半殺しでどうでしょう。
ここまで振って、ようやく子宝の小噺。
もう、頭クラクラして。
ひょっとして、放送用にネタ出しされた高座ではなかったのかな?
迷子を連れてくる
ぼんぼん唄をモチーフにした「寄席芸人伝」のストーリーも、子供との涙の別れを描いたもの。
談四楼師のものもそうだったと思うのだ。
ところが志ん生。
子供が欲しいと観音さまに願を掛けた帰り道に迷子の女の子がいたので、「この子の親を知ってる」とウソをついて連れてきてしまうのである。
観音さまのご利益だと感謝してるが、これじゃ誘拐だ。
現代感覚からはキツいなあ。
当時は「そういうもの」として聴けたのだろうが。
しかし、お盆のぼんぼん唄を歌わせたら、この連れてきた子供が「江戸一番の祭は相生町」とおかしなことを言う。
この子は相生町にいたに違いない、と返しにいくことにするのである。
かみさんはせっかく馴染んだのに寂しいじゃないかと嘆いているが。
ここだけ拾ったら、いい場面なんだけど。
将棋の脱線
将棋の脱線がやたら長くて、しかも本筋とまるで関係していない。
志ん生は将棋好きで有名だった人だが、本筋と関係ないヘボ将棋を延々と描写するのも意味不明。
しかも、客も笑いつつ戸惑っている気配が感じ取れる。
結局、浮世床をアンコにしたような高座。
もちろん、「ぼんぼん唄には将棋が入る」なんてことではないはずで。
将棋は、主人公源兵衛が返しに行く相生町の床屋で指してたという、ただそれだけなのに。
まあ、「近日息子」の、人に逆らう男のくだりがいささか似てないことはないけれど。
あれもあんまり本編に関係がないのだが、抜いてしまうと噺がなくなってしまう。
ただぼんぼん唄は、そういうもんではないのだけど。
将棋している人にものを尋ねると、「年若だか弁慶だか知らないが」というクスグリはちょっと楽しい。
やっと娘の親に会う
いろいろ聞いて、ようやく娘がいなくなったという材木屋に尋ね当たる。
源兵衛は、「あ、あなただ」と主人を見て絶叫。娘の顔にそっくりだから。
このあたりは、人情噺を笑いで進めるというテクニック。今でも普通。
それにしてもこの一席、今の常識ではわけがわからない。
しかし当時の常識でも、本当はわけわからないのだと思う。
でも、「志ん生だから」全部許されてしまっているのであろう。
語り口は見事だが、正直脳みそが混乱し、なにも言えません。