このたびの牡丹灯籠、感想としては、いい落語を聴いたときに近いものだった。
芝居に、落語の魂が飛び出している。
今回非常に驚いたのは、「笑い」について。
歌舞伎と落語、笑いの多いのはどちらか。これは先刻答えが出ている。
歌舞伎にだって、笑いのシーンは意外とある。でも、そんなに大笑いしている客はいない。笑いに来てるわけではないのだ。
しかしこの牡丹灯籠において、新三郎の身の回りの世話をしている伴蔵夫婦の場面、本当に面白い。コメディ演劇になっているし、笑いも上がる。
だがこの笑い場面、原作には一切ないのだ。
いかにも落語らしいシーンなのに、原作にない笑いが舞台を埋めている。どういうことか?
もともと落語会で、圓朝ものはネタ出しで演じられることが多い。
圓朝ものだと喜んで聴きに行く人も、笑いなど求めていない。
それに、圓朝ものの高座に笑いなど入れられない。
でも、芝居においては笑いがいっぱい。落語において最も笑いの少ない作品が、歌舞伎において最も笑いの多い作品になっている!
そしてこれが大事だが、笑いの要素は、芝居の根底に溢れる恐怖の感情を一切消していない。恐怖が根底にあるから思わずその対応が滑稽になるし、そしてその滑稽さは恐怖を増幅する役割を果たしている。
落語でも、恐怖に対する反応はもちろん笑いになる。でも、この笑いは、別に恐怖を増幅しない。
お菊の皿にも、「恐怖」に対する怯えが滑稽になるという構造はかろうじてある。しかし、怯えは笑いのためだけに貢献し、恐怖のためには働かない。
もう少しわかりやすい恐怖を描くのが「のっぺらぼう」であり「臆病源兵衛」であり、そして「夢八」である。だがこれらの話も、背筋のよだつ恐怖は漂わず、笑うのみ。
気が付いたのだが、どうやら落語では、「笑いにより恐怖を描く」のは著しく困難なようだ。
ひとりでやっている芸の限界らしい。
芝居の場合、別に幽霊たちは人間を心底怯えさせてやろうというのではない。怯えさせはするが、目的ははっきりしていて、新三郎宅に貼られたお札を剥がすことだ。
そのシチュエーションにおいて、ビビっておかしな行動を始める人間を楽しむのは、芝居だけに許された贅沢らしい。
芝居には、怖いビジュアルがついているからだ。
さて、幽霊にお札を剥がせと責められ夜も眠れない伴蔵。
女房のお峰が、知恵を出す。じゃ、百両もらって剥がせばと。悪魔のささやき。
我々は新三郎に抱えられている。新三郎が取り殺されたら生活が立ちゆかなくなるのだから、百両ぐらいもらってもいいだろうと。
主人の命を天秤に掛けるところがすごいが、理屈はわからないでもない。それに、いつまでもぐずぐずしてると自分たちも殺られるかもしれない。
幽霊たちがやってくるときに、女房のお峰は、暑いのに押し入れに隠れている。青菜か。
ところでお峰だが、これは売り出し中の尾上右近。
右近の女形だが、全然女の声を作らないので驚いた。声は低いが、ちゃんと女房。鉄火なかみさん。
これって、男の噺家が演じる女じゃないの、と思った。
夫婦の悪い相談はまとまって。
そして場面転換で、花道のすっぽんから三遊亭圓朝が登場している。
すっぽんとは、花道にある小型のせりのことですね。昨日、圓朝がすっぽんから下りたと書いたが、花道にいたわけではないので間違いです。
「せり」に訂正しました。
圓朝が、外に出られない新三郎に行水をさせ、その間に、お札以外のアイテムであるお守りをすり替えておく。
準備万端。
再び伴蔵宅に戻ると、百両が降ってくる。
腰を抜かしながら、ちゅうちゅうたこかいなと数を必死で勘定するお峰。
もう逃げられない。伴蔵はいよいよお札を剥がしに向かう。
このあたりは、落語「お札はがし」で知っている展開である。
それが立体になっていて楽しい。
伴蔵が、幽霊たちの見守る中、天窓のお札をはがしに行く。
ここらで前半フィニッシュらしいなと思いながら観る。
気の毒な新三郎は、お露が入ってきて、喜んでいる。
お守りとお札があるこの家に入ってこれたということは、幽霊ではなかったのだなと。
しかし早々と取り殺されるところで前半終了。
続きも気になるな。
お露の父を切り殺した二人も引き続き出てくるわけで。
今月中に行こうかなと。
あるいは、「らくだ」も気になる。こちらもまた、笑いの多い出し物のはず。
そういえば、「ピッ」音も含め、携帯が一切鳴っていなかった。一年前と大違い。
事前の声掛けが的確で、ツボにハマっているからだろうか。
同じ人が日本語と英語でしっかりと、「スマホ切ること」「私語禁止」「前傾禁止」をスラッと伝える。
「守らないと恥ずかしい」という気持ちにさせることに成功しているようである。